みんな違うんだ。 _ コロナ禍から学んだこと

みんな違うんだ。

当たり前のことかもしれないけどコロナ禍で私が学んだことの一つはこれだと思う。

身近な人に「今の状況(外出など自粛下の状況)どう?」といった質問をすると「案外楽しんでいる派」と「もうかんべんしてくれ派」の二つに分かれる。

(もちろん、前者の方もコロナウィルスで大変な思いをしてる方々への想いを忘れているわけではなく、自粛の状況自体をどう捉えているかということ)

話を聞いていると、この分かれ道はちょっとした条件の違いによる気がした。

自分、パートナー、こどもそれぞれの性質・年齢・趣味・仕事など。

小学校二年生のこども全員が午前中に二時間半勉強、午後二時間外で体を動かす、残りは家で妹と遊ぶ、でハッピーなわけではない。(これはうちの子の例で、うちの子はこれでハッピー)

同じく小二女児の親の友人と話していたら、全然違った。

娘さんがすみっコぐらしの塗り絵を印刷してと言うから晩ご飯準備で忙しい中印刷したらたまごやきしか塗らなかったと嘆いていた。

その子は外遊びだと何時間でも遊び続けるのだけど家遊びが好きじゃないと。

みんな違うって当たり前かもしれないけど、以前はこんなにクリアになることはなかった。

だいたいこんな感じってことも描きやすかったしグルーピングしやすかった。(もしくはしやすいと感じていた。)

例えば、芝生で寝ることは気持ちいい、友達と飲むのことは楽しいは大方の人は合意していたと思う。

でも、今はこれを欲している度合いが全然違う。本気度が違う。

家の中だけでの生活で娘とのけんかが増え、娘の性格形成に影響しないか心配していた友人もいた。

同業者友人4人とzoomで話していても、私含む2人は案外楽しんでいる派であとの2人はもうかんべん派だった。人と会って飲みたいと。

家族ぐるみで仲良しの友人も案外楽しんでいる派ともうかんべん派に分かれている。



ここ数年はまちに関わる時、いかに解像度高く人の暮らしを見れるかということを大事にしてきたつもりだった。

その時、一人(自分の経験)の話だけではなく、複数人の話ができないと意味がないと痛感したのが今回の経験だった。

全然違う人じゃなくて、近いと思う人の場合も同じことだし、近いと思う人の方がむしろ知っている気になってしまうことがある。

例えば小二女児同士がぜんぜん違うことにはちょっと驚くが、小二女児と大学生がぜんぜん違うことは無意識のうちに想定してる。



正直、私が去年失敗したなと思った仕事上での意見は私一人の話だけで話してしまった時だった。

私が難しいのではといったことが結果うまくいった。

この時は私の意見をこえて動いてくれた人がいたから良かったけど、そうでなければチャンスの芽をつんでいたかもしれない。

この時「私はこのまちのことをよく知っている」という自負から自分だけの経験をもとに発言してしまったのが原因だった。



解像度高く暮らしを捉える、なるべく多くの立場から。

大切にしたいなと思いました。

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