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ドラマで勉強「虎に翼(第69話)」

今日の寅子の噛みつきっぷりは凄かったですね。
SNSでも解釈が色々です。

水滴石穿
来年こそ石を穿つ時がくるかもしれません。


この言葉が初めて出たのは第26話。

女子部廃止が決まった時、「もう一年待ってみようじゃないか」と提案した時の穂高先生の言葉。
そして「来年の試験に女子部の誰かが合格したら存続」となりました。


次に寅子たちの卒業時の祝辞。

長年に渡って染みついたものを変えるというのは容易ではない。

当たり前と思っていた法律、習慣、価値観が間違っていると分かっていても、受け入れられない、変えられないのが人間だ。

それでも、それを我々は引き剥がし、溶かし、少しずつでも上塗りしていくしかない。

君たちが背負うものは重いかもしれない。
君らはその重みに耐えうる若者だと、世の中を変えられる若人だと私は知っている。


そして今日、第69話。

恩師・穂高先生の最高裁判事退任記念パーティー。
幹事である桂場からお手伝いを頼まれ、いやいや参加することになった寅子。

寅子と再会した時に穂高先生は本当に嬉しそうだった。
可愛く走ってきたもの。

穂高先生はスピーチで

法律を一生の仕事を決めた時から旧民法に意を唱え、ご婦人や弱気もののために声を上げてきたつもりだった。
ご婦人の社会進出。新民法の謳う本当の意味での平等。尊属殺の重罰規定の違憲性。

私は自分の役目など果たしていないのかもしれない。結局私は大岩に落ちた雨垂れの一雫に過ぎなかった。でも、何クソと、もうひと踏ん張りするには老い過ぎた。諸君、あとのことはよろしく頼む。

老いて自身の人生を振り返り「まだやらなければならないことがある」後悔。
しかし体力そして気力も既に消えつつある自覚。
穂高先生はちょっと弱気になってしまったのだ。

穂高先生への最後の一撃は尊属殺の重罰規定が違憲であることを通せなかったことだと思う。あの時の超絶保守派・神保先生の「どうだ」という顔との対比。

スピーチは自分自身に対する悔しい思いを表現したんだと思う。

人生の終わりに、特に志がある人は「この道で良いと思って進んできたけれど」と振り返り「やり残したこと」に目が入ってしまう。

婦人の社会進出を訴えるだけでなく、女子部を作った行動も伴った人。それだけで大功労者だ。

穂高先生の最後の最後の弱気が寅子は悔しかったのかな。

噛みついてもいいけど場所を選びなさいよ、とは思いました。

桂場さんが「バカか!」と怒鳴っていたけど。

記念の場、大勢の人の目。
わざわざここに集まった人たちは穂高先生を尊敬したり、お礼をしたい人だったろう。
人生を労おうとした人達だ。

そのパーティーを台無しにしただけでなく、恥をかかせた、という認識は持って欲しい。

寅子に散々吠えられ、唖然と立ち尽くす穂高先生。
会場に戻るヨチヨチした足しどりが切なかった。


寅子と穂高先生の間には長年のわだかまりがある。

寅子が妊娠中過労で倒れた時に、”一度”弁護士から離れてはどうか、と勧めたのが穂高先生。「資格はあるのだから、また戻ればいい」という意味だった。

寅子が裁判所で働いていることを知った時。穂高先生は家庭教師の仕事を探してきてくれた。
寅子が嫌々、法曹の世界で働いていると思ったからだ。

でも、これがキッカケで寅子は「私は法律が好きなんだ。好きでここに居るんだ」と気づくことが出来た。

そう、寅子のスイッチャーなんだよね、穂高先生は。


寅子を法曹の道に導いたのは穂高先生。

寅子の父・直言の裁判で弁護士として名乗りをあげ、無罪を勝ち取ったのも穂高先生。

父の逮捕で学校に行けなかった寅子に「学校に行きなさい」と背中を押したのも穂高先生。

私は穂高先生が好きだったなぁ。

あの時代、婦人に対して、まだ若い寅子に対して「話を続けて」と促せた人が何人いただろう。

若虎に噛みつかれる度に「私は何か間違ったかな?」と自問出来る権威ある男性がどれほどいたか。

なので寅子と穂高先生のこじれ具合が今ひとつ理解出来ていなかった。
今もシックリはしていない。

水滴石穿「雨垂れ石を穿つ」
小さな弱い一雫の雨垂れも、時間をかけていけば石にヒビを入れ、やがて割ることが出来る。

まだ旧民法の時代であり、やっと女性弁護士への道が開かれた当時。
寅子にとっては希望の言葉だったと思う。

第14週では尊属殺が憲法に違憲か合憲かの真偽が行われた。

穂高先生と矢野さんだけ違憲と唱え、結果的には合憲となった。
その時の穂高先生の沈んだ顔が印象的だった。

尊属殺とは上の世代の人を死なせてしまうこと。具体的には親・祖父母・叔父叔母を殺すことである。刑罰は死罪か無期懲役しかなく、他の殺人事件のように3年以上の懲役は付けられない。

しかし憲法の「法のもとに平等」と相入れないのでは?という議論だった。

私も初めて知ったのですが、1995年に削除された項目。意外と最近。
それまでは「どんな事情があろうとも」親殺しは重罪だったのだ。

個人的には目上の人に対しては尊敬出来なくてもよいけど、尊重しようと心がけている。

失礼なものの言い方をしないとか。表面的でいいのだ。
ただ、それが刑罰を決める時、問答無用で重罪とは乱暴である。

寅子と穂高先生のやり取りをもう一度見直してみた。


第38話。
妊娠と過労により寅子が倒れた時、穂高先生はずっと付いていてくれた。

目が覚めた寅子は「先生、私はどうしたらいいのでしょうか」と切り出し、子供を授かったことを伝える。
さらに「久保田先輩、中山先輩が辞めた後、辛くて辛くて堪らない」と漏らす。

そっかぁ、寅子も「どうしたらいいのでしょうか」と悩みを打ち明けた時があったか。忘れていた。

確か、よねさんと再会した時も「だったら、あの時、私はどうすれば良かったの?」と問い、よねさんから「知るか!」と突き返されたんだった。

穂高先生は「君、仕事なんかしている場合じゃないだろう。結婚した以上、第一の勤めは子を産む、よき母になることじゃないのかね」と今の寅子の役割を伝える。


穂高先生は旧態依然とした婦人の役割に押し戻した訳ではない。

多分、女性の体は妊娠・出産をする仕組みがあり、その最中は身体に負担が来るし、どうしても途中で歩みを止めなけれなならない時期がある。

それを念頭に置かずに婦人の地位向上を進めてきただけなんだろう。

寅子の「子供を授かった、辛い」の告白で初めて「婦人」の特性に気づいた。
初めて「婦人が社会で活躍するとどうなるか」の現実を目の当たりにしたのだろう。

それほど寅子たちの世代は穂高先生にとっても初めてづくしだったのだ。

穂高先生は「理想だけではダメなのだ」を知ったのではないだろうか。
実際寅子は倒れたのだから。

現実を目の前にして穂高先生も「どうしていいか分からなかった」のだろう。
可愛い教え子が倒れてしまった。
やはり人間、健康、生きてこそである。

「何ということをしてしまったのか」と自分の理想を押し付け、背中を押し続けたことを後悔をしたかもしれない。

「辛かったね。まずは無事に子供を産もうよ」と伝えたかった。

しかし、あまりに突然なことで古めかしい「結婚した以上、第一の勤めは子を産む、よき母になることじゃないのかね」になってしまった。


しかし寅子は「自分が辞めたら婦人たちの法曹界への道が途絶える。ギリギリまで働き、なるべく早く復帰して世の中を変えるべく法廷に立ちたい。」と訴える。

穂高先生「そう簡単には変わらんよ。雨垂れ石を穿つだよ。君の犠牲は決して無駄にならない。」

寅子「つまり先生は私は石を砕けない。雨垂れの一粒でしかない。無念のまま消えていくしかない。そうお考えですか」

穂高先生「人にはその時代時代毎の天命というものががあって・・・」

寅子「こうなることがわかっていて、私を女子部に誘ったのですか?私たちに世の中を変える力があると信じて下さったのではないのですか?」

穂高先生「だから君の次の世代がきっと活躍していく・・・」

寅子「私は今、私の話をしているんです!」

穂高先生「落ち着かないか。あまり大きな声を出すとお腹の中の赤ん坊が驚いてしまうよ」

寅子「なんじゃそりゃ」

改めて書いていると、寅子の視点と穂高先生の視点がズレているのが分かる。「なんじゃそりゃ」となるのも分かる。

この時、この一瞬、穂高先生は「婦人の社会進出」に弱腰になったのだ。

その後、寅子とは連絡を取らなかった。
穂高先生の中では「法曹界にいるのが辛い寅子」のままの記憶が残された。
そして家庭教師の職を探してきてしまう。

穂高先生なりに寅子を大切に思い、「お詫びとして、私に何が出来るだろうか」と考え続けたんだろう。

これが大きな亀裂になった。

このドラマ、大切な人との会話が圧倒的に少ない。
気持ちを伝え合うことが少ない。
せっかく直道兄ちゃんが「伝えあったほうがいい」と言っていたのに。


尊属殺は違憲と反対意見を唱えたのは最高裁判事15人の中で2人だけ。
穂高先生と矢野さん。

直治は「2人なんて、それっぽっちじゃ何も変わらないよ」と言う。

寅子は
「ううん、そうとも言い切れない。
判例は残る。たとえ二人でも判決が覆らなくても。
おかしいと声を上げた人の声は決して消えない。
その声がいつか誰かの力になる日がきっと来る」

と力強く子供達に説明をする。

この件では穂高先生と矢野さんは雨垂れ役。
岩を穿つことができない。ただの雨垂れ。

寅子は2人の雨垂れを決して見逃さない。雨垂れの必要性を認識している。
この二人ぽっちの雨垂れの意思は1995年に達成される。

でも逆の立場になると受け入れられない。

穂高先生は誰よりも岩を穿った。けれども、その前後には何千何百もの雨垂れにもなり、残念ながら最後は小さな雨垂れで終わった。
一番悔しい思いをしたのが穂高先生本人。

だから社会を変えることが「出来る」とも言えたし、「今は時期ではない」とも言える人なのだ。

最後に寅子は「声をあげる役目を果たし続けなきゃね」と自分に約束をする。
ここに繋がるんですね。

結局、穂高先生が通ってきた道を寅子は進む。

雨垂れがなければ石は穿てないし、無用な雨垂れなどないことを知っているから。
「石を穿った」と目を輝かせ、「私はただの雨垂れだ」と肩を落とし、それを行ったり来たりするのだろう。

穂高先生は「出来なかった」と締め括ったけど、燃える寅子は「ざけんな、出来る!」にフォーカスし、法曹界の父の後を継いでいくのではないだろうか。

優未のテスト結果「84点」を見ず、取りこぼした「16点」にフォーカスする寅子らしい。

でもね。
寅子ってずっと2番だったんですよね。
確か1番の人と点数は同じで内申が云々と言っていた。

この「内申」。
軽くスルーされたけど、ここに決して1番になれず、永遠の2番である理由がある。

寅子自身は「なぜ、ずっと2番だったのか」を検討しない。
「私は悪くない」「私に悪いところはない」と思うタイプだから。

最近、ずっと母性の話を書いていたが、穂高先生は父性。

子供にとって格好いいヒーローでなければならないのだ。

憧れのヒーローが「疲れたのでヒーロー辞めます」と仮面を取ろうとしたので、悲しくて、悔しくて、結果怒りとなって虎の怒号となったのだろう。

ヒーローだって人間だもの。
素顔を見せた穂高先生は器の大きな人だな、と思った。
普通は素顔は見せたくないから静かにフェイドアウトする。

明日、二人が良い方向で終われるといいな。

あ、でもね。
寅子からみたら雨垂れで終わった人も、その後はその人なりの美しい人生を歩んでいるかも。

寅子の怒りが他人様の人生を勝手に入れ込んだものではなく、純粋に自分のことだけになると、もっとスッキリするのかも。

人の人生も、その人の気持ちも。自分のことのように抱えるのは責任感ではなく傲慢になることもある。

タロットでは12番・吊るされた男。


古いパターン(習慣)に貼り付けられた人。

このカードが出ると、1年はずっと出る。
それほど習慣を変えるのは時間がかかる。





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