見出し画像

本音と建前と沈黙と

思っていることを、遠回しに言っていると自分の感情が伝わりきらない。

→すっきりしない。
 承認欲求が満たされない。
 軽んじられた気がする

かといって、ストレートに全部ぶっちゃけると、言いたい放題と言われる。

→悪者扱い受けた気がする
 理解されない気がする

相手に全部伝えだからといって、共感を得られるとは限らない。
理解されても、思い通りに事が運ぶとも限らない。
それはわかる。

建前を言い続けると、本音は?と問われる

→腹を探られている気がする
 信用されてないのかと勘繰りたくなる

黙っていると、思いに気づかれないか、気づいていても流される。
もしくは、黙ってないで言いたいことを言えと言われる

→だんだん考えるのが面倒になってくる
 ほっといてとか、
 関わることをやめようと思う様になる

こんな腹の探り合いが職場で展開されると、ギクシャクしてイライラして、仕事が捗らなくなる。
しかも、ここまで展開されるまでに、少なくとも数日間、長いと年単位になる。
→ストレス解消目指す方向に進みたくなる。

関係者それぞれの自分ルールとか、個人的感情が絡まると、更にこじれる。
そこに持ってきて、各々が各々の正義を持ち出すと平行線をたどって、争い事につながる。

その内、陰口やら無視というモラハラ発生とか、業務上のミスが出ると、失敗のなすりつけが出たり。
責任感の強い人は、自分が我慢すれば良いとだんまりを決めてみたり。
人によっては思い詰めてみたり、被害者妄想に囚われたり。

これが、何百年も続いてきている人間関係の流れなのかもしれない。人はこれを何世代かけて変えてゆくのかなと、ふと思った。
この辺り解消出来たら、戦争が無くなりそうな気持ちさえしてくる。

建前と本音と無言のバランスが、絶妙に上手いと、もっと何か出来ることや、有意義な時間が増えるのだろうか。

そして、じれったくなる言葉が。
人間関係に対して「面倒くさい」と言う前置詞、表現が、平成になってから頻繁に使われ始めた事に驚いた。

「面倒くさい」は、物事に対して自身が抱く、感情の動きを表す言葉だと理解していたから。
人との関わりに、「面倒くさい」を使うのは、未だにすっきりしない。

まぁそれはそれとして、私の言語感覚なので…

本音と建前にギャップが大きい人程、要領よく立ち振る舞いが可能に見えるのは、気のせいだろうか。

静かに黙々と良い仕事する人に、当たる光は蛍の光。
誰かの粗探しして突っついて、自分の手柄にしてみたり。

そんな感じで仕事しているのも、それを黙って見ていることも、何だかもどかしい。

で、こういったことを言葉に現してみると、世の人は、「愚痴を言っている」ととらえる。

私は思った事を言葉にしただけ。

…ここにも他人と自身のギャップを感じる。

損得勘定は、商売繁盛の手段で。
人間関係において、損得勘定で駆け引きして、駆け引きされていることが、自分にとってのストレスにつながっている気がする。

あの人すごい!
良い仕事してる!
あの仕事の仕方、良いね!

→正直うらやましいけど、手本を示された気がすると思いたい私

→私の方がすごいもん!〇〇のクセに。と聞こえる気がする誰かの行動

あの人仕事やってない。
できてない。
決め事守ってない。
美味しいとこ取り。

→腹が立つ。各自の任務遂行しようよ!
と考える私

→そういうことした人のこと下に見てない?と思いなくなる言動が発生。
私がフォローしてやったから何とかなったけど的な風景

どれもよくあることなんだろうけど。

うらやましくてとか、自分をよく見せる為のなんやかんやに巻き込まれるのは、御免仕りたい。
それで済むものならば、済ませたい。

そして…
多分これが、職場で言えない本音なのだ。




よろしくお願いいたします。