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085.文章ぜんぜん書いてなかったのに、なぜいきなり書くようになったのかとか


「文章全然書いてなかったのに、何故いきなり書くようになったのかとか今度聞きたいです。」って、なんだかんだで長いおつきあいのりかさんから、いつかのメールでもらったので、考えてみた。

いきなり...。たしかにいきなりだ(笑)。なんか、スタートが思い出せないくらいいきなりだった気がする。3月に入って、コロナの影響で子どもたちの学校がお休みになって、外出自粛になって、どんどん世界がピリピリとしていったあの時期に、わたしは「書く」ことを、新しい気持ちで始めることにしたんだった。

001.の記事には、「読みたいものがないから、もう自分で書こうと思った」みたいなことを書いた気がする。

「読みたいものがなかった」って、すごく大きかった。これがまずひとつ。

だいたい、わたしはコロナの渦中にあったときに、メディアやSNSでみんなが良かれと思って拡散しまくる「いま、こんな大変なことが起こっている」「だからこうした方がいい」「今後、こんなことになってゆく」「だからああした方がいい」みたいに、言葉という言葉が、文章という文章のすべてが、なにか大きな一点に集中していく流れというのが、もうとにかくいやだった。

いま、わたしだったら絶対に、コロナの「コ」の字も出さないものを書くよ?だってそうじゃない?って、思っていたけれど、なんだかそんなのんきな意見はどこにも見当たらず、どこを見てもなにを読んでもコロナ一辺倒だった、そんな時期に、「いいかげんにせいや」と、自分なりに反旗をひるがえしたんだと思う。

いいよ、みんな、好きなだけ言っていればいいよ。わたしはコロナの「コ」の字も出てこないブログを、毎日書いてやるんだ。それがわたしにできるもっとも善きことなんだ。と、そんな風に感じたことはなんとなく覚えている。

大多数が大きな流れに飲み込まれていく、その流れではないところにいつでもいたいし、なにかちがう言葉を発したかったんだな、と思う。

もうひとつは、「note」というプラットフォームの存在と、「文体」。

文体、を意識しながら文章を書くひとが果たしてどれだけいるのかわからないけど、わたしにとってはそれが唯一といっていいくらいの大事なものだ。文体とリズム。自分なりの文体と、自分なりのリズムがつかめさえすれば、それはもうどんな演奏もできる楽器を手に入れたようなものだ。

その楽器で、なんでも好きなメロディーを奏でればいい。ジェイク・シマブクロがウクレレで、彼の世界観を自在に表現するように。でも、楽器が手に馴染まないうちに、音が定まらないうちに、演奏を始めるのはとてもむつかしい。

アメブロを使って、ワードプレスを使って、メルマガを使って、Facebookを使っていると、そのときどきに応じて文体を使い分けていることに気づく。ですます調とかでも違うし、改行をめちゃめちゃいれるとか、そういうのでも違う。

上記4つを使っている間ずっと、「自分の文体が自分でつかめないな」という感覚があって、いまいちリズムに乗れない、そんな感じだった。インターフェースの問題だったり、外観の存在だったり、フォントや打ちやすさ、立ち上げやすさの感じが、どれもぴったりしっくりこなかった。

けれど、noteを始めたらインターフェースの問題はほぼ完璧と言っていいくらいに解決した。ああ、ここなら書けそう、っていう肌感覚があった。それは今もすごくある。すごくありがたいなって思ってる、noteの存在。

そして、文体を絞りこんでいった。おこがましいと言われようが事実なので書くけど、思春期の入り口という多感な時期に吉本ばななと村上春樹の小説を、それこそ美味しい水をごくごくと飲むように読み込んだ経験は、もう染み付いているので、確実に影響は受けているだろうと思う。受けざるを得ないっていうか。あんな、粋にはもちろんかけないけど。

その上で、改めて「noteでずっと書いていくなら」という視点で、モデルケースを探した。わたしの場合は、必要だと思ったから。そして、銀色夏生さんの「つれづれノートシリーズ」と、服部みれいさんの、このnoteの声のメルマガではなくって、もうずいぶんと更新されなくなって久しい公式ブログでの「ことば」という日々の記録。あとは、『あなたは、なぜ、つながれないのか  ラポールと身体知』の著者である高石宏輔さんの、やっぱりこのnoteでの日記。この3つを指針にしよう、と決めた。

文体の指針。リズムの指針。ことばに、プロフェッショナルとしてかなり真摯に向き合っているこのひとたちのテキストに、いつでも触れていよう。そうすれば、そうそうおかしなことにはならないんじゃないかな、と思って。

文体を手に入れるって、いったいどういうことなんだろうね。でも、わたしが誰かの文章に心惹かれるときはいつも、「なにが書かれているか」ということも重要だけど、それ以上に「どんな文体で書かれているか」を、無意識にキャッチしているような気がする。そして、それは完全に生理的なレベルで行われるものだと思う。

すばらしい、愛の歌。歌われている内容は、どんな人の心も打つものであったとしても、それを歌うひとの「声」「身体」「息の感じ」「発する声と声の、間」「余韻」「表現のニュアンス」「表情」それらすべてが、その内容と調和していなかったら、やっぱりその歌は聴けないんじゃないかな。

文体って、見た感じの「行間」「句読点」「改行」「漢字とひらがなのバランス」「使われることば」「繰り返されるリズム」「頭の中で音読した時のグルーブ感」みたいなものが、全部合わさっているわけだから、もうはっきり言えば、「文体が好き!」って思えるひとを見つけたら、そのひとがなにを書いていたって、ものすごく気持ちよく読める、そういうものだ。

宇多田ヒカルの、鼻歌でだってぐっとくる、きっと。羽生結弦が、ただなにげないいつものスケーティングで周回してるその姿だって、他の誰かのスケーティングとは違う感じがすると思うんだ。

だから、文体が決まるまでは、なんとなく表現が限られちゃったり、すごく言いたいことはいっぱいあるのに、うまくことばや文章にならなくて、もどかしく思ったりもして、辛かったし何より書いていてつまらなかった気がする。

今は、なにについて書いていてもまあいいかなって思える。ピアノを弾ける人が、ふとピアノの前に座って何気なくなにかを弾くように、絵を描く人が、ふと目の前の風景をスケッチするように、写真家がふとシャッターを押すように、そんな風に「ふと、なにかを書く」ということをすればいいかな、って。

そんなふうに、日々をスケッチするような。なにかをすごく大きな声で騒いだり、変に声をひそめたりするでもなく、見たままを、見たままのカタチで切り取るように、ことばを扱ってみたいと思ったの。

それが、いきなり書くようになった理由の一部だと思います。もっと細かく見ていけばもっとあるような気もするけど、とりあえず今日のところはそんな感じで。

夏至で、日蝕というすてきな1日でしたね。お元気でしたか?わたしはねー、ぜんそくがちょっとあまりよくない感じで長引いているんですが、心は楽しくて元気です。


今日の一冊













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