131.I DON’T MIND,IF YOU FORGET ME.
朝9時になったらかんちゃん(小4息子)は家を文字どおり飛び出していって、近所のともだちのノリを迎えにいって連れて帰ってきて、ずうっと一日中ふたりで小犬のようにじゃれあいながら遊んでいる。
あまりにもかわいいふたりなので、本気で「ノリ、うちの子になればいいのに...」「くそ、若いうちにもうひとり産んでおけばよかった....」とか思う。子どもを産んでしまうと、世界中のすべての子どもがかわいい。
ぜんぜん子どもなんか好きじゃなかったのに、不思議なことだ。だから自分の「こんなのぜんぜん好きじゃない」なんてまるでアテにならないんだ、きっと。経験と状況ですべての価値観はひっくりかえるものなのだ。
ミッシング・パーソンについて考える。もう、この人生の中でたぶん、二度と会えないだろうな、と思うひと。そういうひとたちのことをよく考える。わたしはわりにメソメソした性格なのだ。
もう何年前だろうか、奈良美智の展覧会に行ったときのタイトルだったような気がするフレーズを、一時期、よくブログに書いていた。
”I DON’T MIND,IF YOU FORGET ME.
BECAUSE I NEVER FORGET YOU.”
毎日こうして書いているのは、なんとなくそのひとたちに向けて「わたしは元気だよ」って伝えたくて書いているんだな、と思う。
いまでも会えるとかもう会えないとか、関係性は不思議だ。恋とか愛とか好きとかの分量なんかではなく、やったとかやってないとかでもなく、ただ、交差していたポイントが離れていく。たしかにあのときはクロスしていたわたしたちの道が、今はもうこんなにも遠い。どんなに目をこらしても見えない。名前を呼んでも聞こえない。
わたしのたいせつなミッシング・パーソンたち。
そうそう、きみのことだよ。
わたしの声が聴こえる?
きみはわたしのことを忘れてたっていいよ。
だってわたしはきみのことを、忘れないから。
「みおさんが楽しそうに書いているのがうらやましい」という感想を今日もいただく(よくいただく)けれど、わたしの「書くこと」の根底にあるのはミッシング・パーソンへの「わたしは今日も生きてるよ」という、なにかとっても切実なものなのだ。
書いていると、もちろん楽しいけれど、わりといつもきゅううううっと、胸を痛ませて書いていたりするのです。
それは『インターステラー』の中で、マーフが宇宙に旅立っていってしまったパパに、もうほとんど会えない可能性の方が高い、宇宙のミッシング・パーソンとなってしまったパパに向けて「パパ元気?わたしはいま、こんなふうに過ごしているのよ」「パパ元気?わたし、もう何歳になったのよ」って、伝えつづけることでしか、この世界で生きることができない。パパに二度と会えないことをどうしても信じたくない、みたいな。わたしの声は届いているんだよね?きっと、そうなんでしょう?という、そういう祈るような気持ちが、根底にあるのです。
わたしはいろんなことをぜんぜん乗り越えていないんだなと思うし、これから乗り越えることもなく、ずっとずっと胸を痛ませながら、こうやっていつでも語りかけているのかもしれない。それなら、この痛みは癒えなくたってちっともかまわないのだ。
死別でも、離別でも、はなればなれになってしまったことがこんなにもたまらなく悲しい、と思えるほどの出会いがわたしにはあったんだからさ。
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