0683.夢を見る力、夢から醒める力
昔、こんなことをよく思っていた。
「世の中には、一生かけても見切れないほどのすばらしい映画があり舞台があり、一生かけても聴ききれないほどの音楽があり、一生かけても読みきれないほどの小説がある。それらはまちがいなくわたしにかけがえのない体験を与えてくれる。だったら、どこにも行かないで誰とも会わないで、現実なんて生きないで、ずっとそれらの物語の中にいられたらどれだけ幸せだろう」
と。
*
今日は悲喜こもごもの日だった。りかさんと一緒に新宿で「最高のお財布を買おうぜ」とわくわくしながら伊勢丹をぐるぐると巡り「どうかな?これ、お金の入ってくるイメージする?」「するする〜」とか言いながらこれぞ!というお財布をゲットしたり、ランチしながら来月の湯布院旅行の話をしたりと、久しぶりに楽しい時間を過ごした。
そういう日っていつも「このまま、この最高のまま今日が終わればいいな」と思うくせがある。けれどそうは問屋が下ろさず、夜は親戚間でとある出来事があってなんとも形容しがたい感情(いちばん近いものは悲しみと、あとは羞恥かなあ)に苛まれることにもなったのだった。
喜びだけを味わいたい、とどうしても思うのは人間として自然なことだよな、と思う。感じることに対して開いた姿勢でいるということは、そうではない気持ち(悲しみ、失望、羞恥、孤独などなど、枚挙にいとまのないネガティブ感情)もしっかりと感じないわけにはいかない。その開き具合、閉じ具合というのはセットなので、喜びだけは純粋に感じるけれど、悲しみにはふたができます。という人はいない。
喜びに対してオープンであるということは、同時に痛みに対してもオープンでいるしかないのだ。抱きしめるときに身体の半分だけを抱きしめることができないように、それは全部を感じるということなのだ。
というわけで、ちぇっ、心が痛いぜチッキショー。とも思った今日だったのだけれど、そこで冒頭に戻る。
喜びと悲しみをそのまま純度100%で味わって心を動かす、現実をそのまま体験するということは、夢から醒める力だと思う。
「こんなのぜんぜんたいしたことないし」と自分を麻痺させていく生き方は、自分をぼんやりとした幻想の中に引きずり込んでしまうということだ。そこはぼんやりとした夢の世界で、楽しいことはそこそこ楽しく、悲しいことは見えない。
心が凍りつくような絶望もない代わりに、魂が目覚めるような鮮やかな喜びや躍動もない。
これは松村潔先生のタロットに関する著書からの引用なのだけれど、タロットに限らず人の感情体験、つまり「夢から醒める力(連想イメージからの脱却)」についてすごくわかりやすく語られているなあ、と今日改めて読み直して感じた部分だった。
映画や音楽や小説などの物語の力そのものは、「夢見る力」だ。その物語を自分の感性で受け止め、自分の人生や感情体験を投影し、再体験・新体験・進体験する。そしてその物語の送り手と、受け手である自分との互いの”人生観”をとおしての相互の交流による「新しい活力」というものが発生している。
それが、「映画を観る」「音楽を聴く」「ダンスを観る」「小説を読む」、つまり「夢見る力に触れる」ということの本質だと思う。
*
冒頭のわたしの「あーあ、一生おうちでどっぷりフィクションの中にいられればいいのに」という願いが、とてもとんちんかんなものであるということが、今ならよくわかるのです。
わたしは今日、最高に楽しんで、最高に悲しんで、そのどちらも濁らせることなく身体全部で感じ切って、今はとてもすがすがしい。今日一日のいろんな出来事を生きて、感じる体験の経験値が増えたことが嬉しい。
その感受性の経験値の積み重ねこそがわたしだし、そのわたしを構成している感受性の大きさや繊細さの分だけ、わたしにとって大切な、映画や音楽や小説というアートやクリエイションから「夢見る力」を受け取ることができるのだ。
きのうより今日、今日より明日の、未来のわたしにとって、世界はどんどん「夢を見て、味わうに値する世界」になっていくのだから。
*
本日後半の失意のわたしを救ってくれたSEVENTEENの名曲。
*
*
*
*
*
文章を書いて生きていくと決めました。サポートはとっても嬉しいです。皆さまに支えられています。あと、直接お礼のメッセージを送らせていただいておりますm(_ _)m