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099.自分を使いこなそうぜって思った、明日で100日連続投稿達成!の前夜


自分にはとてもあやういところがある、と感じているひとはわりと多いような気がする。もういい歳なので、自分だけが大変だとか、自分だけが繊細だとか、自分だけが傷ついているとか、自分だけどうして、みたいなことは思わなくなった。

成功しそう、完成しそう、もうあと一歩でうまくいく、その一歩手前、というときに、なにか不穏なものが自分の中から湧き起こり、なにもかもをぶち壊したくなって、台無しにしてしまう、という経験をしたことは、きっと誰しもの中にあるはずだ。

もしくは、もうちょっとですべてがうまくいく、という大一番のときに、熱がでたり怪我をしたり、電車に乗り遅れたりして、いわば偶発性の出来事によって、すベてが無に帰してしまうとかさ。

たぶん、ダイエットを途中でやめてしまうひとは、効果がぜんぜんなくて、モチベーションが下がるからやめてしまうのではない。効果が出ていて、良いペースで、「あ、もしかしたらこの方法で、自分は本当に変わっていくのかもしれない」と思ったときに、やめてしまうのだ。

変わることが、うまくいくことが、成功することが、怖いから。

怖いというか、そういう良き変化を繰り返していく、という経験を、自分にさせてあげる準備ができているかどうか。現状維持という「不満だけど安全」という世界を捨てて、常に新しい、未知なる世界へ自分という存在を、ライドさせていくかどうか。

そういう瀬戸際みたいなものが、いつでもあるような気がする。

ナンバリングの001.から始めたのは、当然「100.」という数字を、その達成を、自分に課したわけなんだけど、達成するかどうかはなんというか、単純に、「自分に達成という体験を与えてあげることに、許可を出せるかどうか」みたいなところにあるんだな、と、ここまできてじわじわとわかってきた。

もう、090.以降の、気の重さと言ったら(笑)。身体的にはだいぶいい感じに習慣化できているので、身体において「抵抗・中庸・情熱」という3層で考えたときは、いつでも「中庸」だった。

あ、余談ですがこの3層構造は、自己観察においてとても便利なので覚えておくといいと思います。だいたい、自分の状態は「抵抗感」があるか、「ニュートラル」でいるか、「パッショネイト」であるか、どれかです。

さらに、そこに関して「身体」「感情」「思考」という別な視点での3つを意識しておくといいです。わたしが「気が重い」と言っているのは、詳しく説明するならば、

感情センターにおいて、抵抗感が強い状態である。という自己観察結果です。

ただ、思考はいつでも、このnoteの継続という形を、自分の「WAY」にしていくことで、「身体」「感情」「思考」をバラバラにしておくのではなく、ひとつの意志の元、スムースにはたらく状態にしようではないか、という意図がセットされているので、そういう意味では

思考センターにおいて、常にパッショネイトな状態である。わけです。

ただ、それを、感情が足をひっぱっている構造で、この「身体」「感情」「思考」のどれが、自分のどういう場面でバラバラになって足をひっぱり出し、当初の明確な意図をなし崩し的にゼロにしてしまうのか、を知っておくことが、自己認識においてはとっても重要だとわたしは考えているのです。

だいたい、感情エネルギーというものはとても強いので、思考の意図を引きずり下ろすなんてことは朝飯前なんですけども、それやっているといつまで経っても、ままならない人生の牢獄に閉じ込められているだけになっちゃうんで。

閑話休題。

なので今日がいちばん、更新の抵抗感の強い日だなあって感じ。明日はたぶん、もっと軽いのだろうなと思います。明日は、感情センターの抵抗を、それほどは感じないような気がする。

あとちょっとでうまくいく、というところでやめるクセがわたしはずいぶん長いこと染みついているので、こんな感じの荒療治?でこつこつ対処していっている。わたしにとって、決めたことを、決めたところまでやり切る、ということは、いつの間にかとてもむつかしく、とてもおそろしいことになっているのだね。

人生はままならない、と感じている人は、たぶん瞬間瞬間に自分を見ていくといい。いま、ここでこうしている自分は「抵抗・中庸・情熱」のどの軸にいるのか。

ああ、いま、自分は上司から丸投げされた、意義の見出せない仕事にうんざりしていて、抵抗感まんさいでこうしてPCに向かっているのか。と、自分の状態を客体化できたひとは、もう抵抗感の中に没入していない。抵抗感を観察できるのは、その状態が「中庸」だからだ。

ああ、いま、自分はまるで食べたくもないのに、口うるさい夫のためにせっせと食事の支度をしているのか。と、無力感に苛まれているとする。そのとき、「いま自分は無力になっている」と観察できるとしたら、それは、最下部の「抵抗感」から一段上がった、「中庸」の中にいる。

ただ、「中庸」はスタート地点としては重要だけれど、そこそのものに動きがあるわけではない。ああ、無力感を感じているのだ、この行為に。この日々に。この人生に。と感じるだけなんだけれど、そこからもう一段、「じゃあこれからどうしていこうか。どう生きていくのか。なにか他の可能性が自分にはあるのだろうか」と、能動的な思考・感情・身体を発動させるとき、そのひとの状態は一段上がって「情熱」のところにいる。

その「情熱」の中から、変化や希望のエッセンスを見出すことができる。それは、「抵抗」のエネルギーとはだいぶ違う世界だ。身体は軽く、感情は明るく、思考は明晰になる。

お、書いているうちに気の重さが抜けて、なんだか楽しくていまにも笑い出しそうな気分になってきた。こういうことを書いているのが好きなんだね。

感情センターが「抵抗 → 中庸 → 情熱」と上がってきたプロセスですね。これは、書くという行為をやめないことで、思考センターの「情熱」は発動していたわけだから、思考が感情をひっぱりあげた例ってことだ。

ただブログを書いているだけの数十分の中でも、自分の中にたくさんの変化が起こることはおもしろい。身体性をもっと使う人もいるよね。ストレッチしたり、ジョギングしたりすれば、それは感情センターの上昇を助ける(わたしはあまり身体センターを協力的に使っていないので、それは今後の課題ってことで)。


自分のあやうさを愛しく思っているし、安定したひとよりあやういひとのほうがおもしろいじゃん、という価値観も根強く持っているので、それを失いたくはないんだけど。とりあえずこの"noteに文章を書く"という行為そのものは、まだしばらく安定のほうに進めていきたいと思う。

これは、本当に個人的なわたしだけの修験道っていうか、修行みたいなものだから(笑)。

三段活用でもう一つよく言われるのは、修行における三段活用で、これは「見る」「包まれる」「なりきる」という段階に分けられる。「見る」は、まだ発見したばかりの、はじめたての状態。これかもしれない、これが自分を磨くものかもしれない、と感じる。次が、「包まれる」の状態で、文字どおり、大量に浴びて、包まれている。集中し、継続し、量産して、場数を踏んで研鑽している状態。

最後は「なりきる」。これはもう、それそのものである、ということ。その体系なり、行為なり、行動なりと、自分の「身体」「感情」「思考」すべてのプレゼンスが完全に一致している状態。


なにか、これを自分の道にしたいとか、ある専門性や分野でのプロフェッショナルになるとしているとしたら、この三段活用を意識するといいと思います。わたしは、ここに書いたいくつもの三層の視点や視座なくして、どんな経験ももはやできないってくらい、自分にしみついている思考法で、これらを使って自分や世界を見ているのですが、そんなマニアックなひとが他にもいるといいな、というよくわからない願いを込めて書きました。

みんな、自分のプロになることがいちばん大事だと思います。自分をマスターして、自分をこの世で(なんならあの世でも)使いこなすことほど、楽しくて大切なことは他にはないんだって、わたしは思うのです。


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