そのアナーキーでラジカルすぎる直球の正直さで、わたしの胸の内にあるモヤモヤをいつも吹き飛ばしてくれていたレーネンさんが、15年間にも及ぶその独自の精神性に根ざした啓蒙・啓発活動の一切を停止する。
レーネンさんを知ったのは例のごとく、吉本ばななさんからだった。
ばななさんからは、カスタネダやゲリーや百合子さん、レーネンさん、そしてバリのアニキのことなど、「世の中にはスゲ~変わった、スゲ~ひとがいっぱいいるんだな」ということを教わった。
中でもレーネンさんの言葉はとにかくぶっ飛んでいて(とわたしは感じていて)、それでもひそかに「わたしもそのとおりだと思います……決して、決して表立っては言えないけれど」と思っていた。
それをぐいぐいと表立って言いまくっている、ハワイに在住の動物を愛するファンキーなおじいさま。それがわたしの中でのレーネンさん像だった。
わたしは、自分がないとまでは言わないけれども、どうしてもその性格上「相手ありき」でものを見るくせがある。わたしの中で絶対的なものというものはごくわずかで、あとのだいたいは相対的なものなのだ。
これをやってほしい、と思ったとしても、お願いする相手がそれを望まないのであれば、それはやってほしくないことに容易に転じる。
「これ」を、やってほしい。というものはあまりない。
やリたいと思う「それ」ならば、やってほしいと思う。
わたしと世界の関わりはそんなふうに成り立っているのだけれど、時としてそれは「絶対」とか「軸」とかから離れてしまうことになり、思いや方向性があいまいになりやすいというデメリットも生まれてしまう。
レーネンさんの言動は、いつも彼の中にある「絶対的な人間の真実」というものに根ざしていたので、わたしは心がもやもやしていたときにいつでもなんとなく彼の言葉をながめていた。その著作も何冊かは持っているが、本になるとどこか彼のソリッドな部分が編集されて、やさしくなっている代わりになにかが失われているので、読むのはもっぱら彼のブログのフレーズを切り取った「マイ・レーネンさんbot」のようなテキストだった。
ブログを翻訳しているのは、彼の日本での活動を支える右腕のような男性なのだけれど、彼の歯に絹着せない質感の翻訳こそが、レーネンさんの表現を最大限に良きものにしていたのだろうとも思う。
もう活動を止められるということは決まっているそうなので、今後のサイトの存続についてもよくわからない。
なので、これまでの活動に敬意を表して、感謝の意を込めて、「マイ・レーネンさんbot」をここに残しておくことにします。
なにか響くものがあったら良いな、と願いつつ。読んでみてくださいな。あんにょん!
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