不快感を原動力にしない生き方
もし、昔の自分が「いつまでもずっと食器を洗わないで置きっぱなしにする自分」で、ここ最近の自分が「食器が流しにあったらさっと洗う自分」になっているとしたら、それは大いなる祝福だとわたしは思う。
と、あいざわともこさんのnoteを読んでいて思った。
わたしも今となっては食べ終えた食器に関してはわりとさっと洗って、流しにはなにもない状態にしているけれども、わたしはわたしでさらに「昔の自分だったらこれはやっていないな」というようなことが増えた。
それは、昔の自分だったらなぜか!謎に!お皿を1枚か2枚、もしくはお箸を1膳とか…..そんな大したことのない量の洗い物を「ほんのちょっぴり」流しに残していく、というクセがあったのが、それをしなくなったのだ。
さらに、流しにお皿をちょい残しし、流しのとなりの調理スペースははねたお水でびしゃびしゃ…..という状態のままキッチンを離れることも多かったのが、ここ最近では
・食器は洗い切る。
・生ごみも都度まとめて捨てる
・となりの調理スペースはキュキュっと吹き上げる
ところまでをワンセットでやるようになった。ハチ(旦那さん)が洗い物をするときはこの上記3点セットを必ずやっていたが、わたしはそこまではやらなかったのだ。
それって、ハチには「やり切る力」があって、わたしにはなかった。だからだと思う。やり切らないでその場を離れる、ということをいつもやっていた。すべてにおいてそれは現れていたのだった。
キッチン以外にも変わった点、それは洗面所の排水口をかなりこまめに掃除するようになったことである。
洗面所、洗面台の排水口。
ひとはどれほどの頻度で掃除するのだろうか。少なくともわたしは、あるときふと「あれ、なんだか流れが悪いなぁ」と感じたとしてもしばらく放置。ちょっと詰まっているかも、くらいは見て見ぬふり。けれどもいよいよ流れが止まって、水が流れずに溜まり出したあたりで「あーあ、やれやれ…..」と、顔をしかめてみたくもない排水口をやっとのことで開けてみて、掃除する。
とまあ、そんな感じだった。
食器を溜めておくのと、排水口を放置しておくことは、実は一緒だ。
それは、行動原理が「不快感」ということ。
食器が溜まってるー、うー、やだ、やりたくない…..と先延ばしにし、溜まりに溜まって耐えきれない不快感の中でやっと動き出す。
もうこれ以上は無理、不快。だからやる。
でもなんかこれって行動のトリガーとして「重すぎん?」と思ったのだ(頭ではなくおそらく感覚で)。いやだなあ、めんどうくさい、と放置しておくその感覚も重い、溜まったものをいやいや対処するのもまた重い。
それよりは「いつでもピカピカのキッチン」「いつでもぐんぐんと水が流れる洗面台」。その気持ちよさ、つまり”快”をキープすべく行動するほうがずっと心身が軽いことに気づいたのだと思う。
わたしたちは人生の大半の時間をサバイバルモードで過ごす。「こうしたら怒られない」「こうしたら笑われない」「こうしたら人並みでいられる」と、人の目や恐れをベースに価値判断をして生きてしまう。
これが「不快を原動力にする生き方」なのだと思う。すべてのことを勝手に義務化して、重くして、先延ばしにしてさらに重くする。
楽しいはずのLINEもSNSも、結婚もセックスも、仕事も子育ても、なんでもかんでも義務化して不快にして苦しむ。
でもほんとうはどれもこれも楽しむためのものなんだと思う。そしてそれらを楽しむためには自分の原動力の前提を”不快”から”快”に変換する必要がある。
そんなわけで「食器をすぐに洗う自分になっていることの気づき」は、行動原理の前提が書きかわっているということで、大いなる祝福に値するとわたしは思うのでした。
こうしてまたポツポツと思うままにnoteが書けるようになってきたことも、わたしの中ではまた、祝福なんだけどね。あんにょん。
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