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なぜnoteで書くのかな、とか考えると。

 noteで書く事は、そもそも、普段自分がつらつら考えることを記録しておこうと思って始めた。備忘録的な感じ。
 それと自分で何かしら書きたいものがあるから書いているわけで、自分でよく書けた!って思えないと意味がない。結局は自分の為に書いている。

 それでも、それなら自分一人で紙にでも書いて自分だけで読んでたらいいのに、わざわざ投稿するのはやっぱり…
他者に読んで欲しい気持ちがあるからで、でもそれは、なんというか、反応が見たいからで、例えば全く受けないとか、著しく反感を買うとかでも、なんでもいい、そういう何かしらのリアクションが欲しいからだと思う。

 で、それは自分の書いたものを外側から見るための手段なのかもしれない。

 自分のことは客観的になかなか見られないから、書いたものも同じで、自分の思っているように、読んだ人が思うかは、なかなかわからない。多分、100%は伝わらないだろう。
 自分で書いて、面白い!と思っていても、読む人が面白いとは全く思わないなんてことは当然ある。それでも、好意的な反応がもらえたら嬉しいし、少しでも言わんとすることを汲みとってもらえたなら、天にも昇る気持ちになる。いや、そもそも読んでもらえるだけでリアクションである。読んでくれた人の時間を貰えるというのは凄いことなのだから。

 なぜ自分の書くものを外側から見たいのか。これは結構むつかしい問いなのだけれど。
 自分で納得できるものを書きたいからではないかと思う。
 究極、自分が自分のために書きたいものを書くには、自分の書くものを外から見る目が、他者の目が必要なのである。
 でもそれは、他人に受けるために書くというのとは違う。だから、全く受けなくても書き続けるだろうし、それでも他者の目から得られる距離感みたいなものが有効なのは、あくまで今、この場で、書いている自分、というのが前提になるから、だと思う。
 今、生きて、何かしらを考えて書いている自分。そこに同じ時間を共有する誰かの、時間が交錯する。
 生きてることを確かめたいのかもしれないな。生存確認のようなものなのかもしれない。
自分で、自分の。

 今週はお盆休みでのんびりできたので、なんとなくそんなことを考えたりもしてみたのでした。

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