見出し画像

パパのオレ、オレになる?! 第9話

第9話 決断

会社に着くといつものとおり、朝1のルーティンであるメールチェックをし、すぐに返信できるものはその場で返信をして、お客さんからの問い合わせなどパートナー会社さんにお願いする仕事は依頼をかけていく。

今日は先週後半に発生して、まだ問題の解消できていないバックアップエラーのメッセージについて自分が対応しないといけなさそうだ。夕方から顧客先に行って対応して直帰しよう。だからそれまでにやることは…と頭の中で今日のタスクの整理をしようと思っていた時、課長から「ちょっといいか。」と声をかけられた。

集中していたので、そのまま「あ、はい。」とパソコンに向いたまま答えると、「手の空いたところであっちに来てほしい。」と廊下の方向を指さされた。つまり、廊下の向こうにある会議室のことだ。「すみません、この書きかけのメールを送ったらすぐ行きます。」と答え、残りの5,6行を書いて、パパッと見直して送信ボタンを押した。

パソコンだけをもって、会議室に急ぐ。会議室のドアを開けるとほぼ正面に、こちらを向いて課長が座っていた。

嫌な予感がした。

「月曜の朝からすまないね。ちょっと僕に時間がないので簡単に伝えさせてもらうよ。実は役員レベルで受注に向けて動いていた案件があってね。西川プラントなんだが、受注が確定したということで、秋山君をメンバーとしてアサインしたいと思っているのだが、いつから動けそうかね?」

いやだ。

声にならない声が自分の中で聞こえた。実際は瞬きをするくらい短い一瞬だったかもしれないけど、俺の時が止まった。ただ広がる静かな無の空間に自分一人だけがいるような感覚がした。

「忙しくはなると思うが、転勤はない。進めることで問題ないかね。」

再び課長に問われ、俺は狼狽えた。

「ありがたいですが、考えさせてもらっていいですか?」

かろうじて出た言葉だったけれど、この言葉を言った以上、もうこの会社での未来はなくなったと思った。それを思うと、昇進なんて望んでなかったはずなのに、先の見えなくなったトンネルの中にいるような閉塞感が訪れた。

課長は、さすがに俺がこの案件を見送るとは思っていなかったようで、「何か問題があるのか?」と少々驚いた顔をして聞いてくれた。だけど俺は、「すみません、少し時間をください。」としか言えなかった。

「いろいろ考えることもあるだろうが、子どももいるだろう。」とも言われたけれど、その言葉が俺に響くことはなく、ただ俺は一人虚無の世界にいるようだった。

「まあ、もう一度話をしよう。」課長はそう言い、「急に時間を取って悪かったね。」と言って会議室を出て行った。

俺は俺を理解できずに、頭の中が真っ白になった。
ただ呆然とするしかできなかった。
しばらくの間、俺はただそのまま座っていた。

会社に対して「仕事をしません」と言ったようなものだ、ということをどこか遥か遠くで感じている。自分の言った言葉の重大さもわかっているはずなのに、自分とはまるっきり関係のない窃盗事件をテレビのニュースで見るよりも実感がわかない。

半分放心状態のまま自席に戻り、パソコンを広げることもないまま座っていると、俺の様子がおかしいことに隣の席にいた鈴本君が気づき、「秋山さん、大丈夫ですか?!」と声をかけてきた。「ああ、うん…。大丈夫。」と答えたものの、それ以上何もできない。「身体は大丈夫ですか?」と聞かれて、「ああ。」と答えた。

鈴本君はそのまま自分の席に向き直し、何かパソコンを操作した後、「会議室とったんで、移動しませんか?ここよりは落ち着くと思うんで。動けますか?」と言った。何も浮かばないが、それが悪い案ではないことは分かった。

「秋山さん、行きましょう。」と鈴本君に促され、俺は席を立って放心状態のまま会議室に向かった。

会議室にはいると鈴本君は椅子を引いてくれ、俺は入り口から2番目に近い椅子に座った。目をつぶり息を吸い込む。そのままお腹が上下に動くのを感じて時間が過ぎた。しばらくして鈴本君が、僕がいない方がいい気がするんですけど、会議室を僕の名前でとった手前、5分くらい居させてもらってもいいですか?と聞いてきた。「ありがとう。」と答え、俺はやっと目を開けることができた。

鈴本君は、俺から2つほど離れた向かい側の席で、時折マウスにのせた中指を動かしては止めて、顎を左手の上に載せて少し考えるような顔をしてから、また手をマウスに戻したりキーボードを叩くという動作をしていた。俺は、そのとき、ふと「辞めよう」と思った。

鈴本君が、とても遠くにいる人のように見えた。

何かを考えているのに、何もないという不思議な感じだった。ボーっとしているような、ものすごく遠くで何かを考えているような、よく分からない感覚だった。

しばらくして鈴本君が「もし、僕でよければ話聞きましょうか。」と言ってくれた。彼の優しさは感じたけど、今の俺には言葉にできるものがなにもない気がして、しばらくして「ありがとう、だいぶ落ち着いた。」と答えた。

大きなため息のような深呼吸をして、一度しっかりと目をつぶってから目を開けた。このままここに一人でいると思考が暴走して席に戻れなくなりそうだと思った。「ありがとう。落ち着いた。…戻るよ。」と鈴本君に伝えた。鈴本君は一瞬考えたようなそぶりを見せたあとに「僕、もう少しだけここにいますね。」と言ったので、俺だけ会議室を出た。

席に戻り、パソコンを広げて仕事を始めた。鈴本君は、それから15分くらいして戻ってきた。彼が戻ってきたときに、もしかして俺を一人にさせてくれたのかもしれないと思った。

それからは黙々と仕事をして、定時を過ぎたところで仕事の切りのいいタイミングで会社を出た。いつものように理沙に帰る連絡をして、ほかの人たちと同じように駅に向かい、家に向かうサラリーマンの一人になる。

今朝の出来事はまだフワフワした感じがする。そのまま自宅に着き、いつものように翔太をお風呂に入れ、理沙の作ってくれた飯を食い、翔太と遊んだ。ふわふわしている自分をどこかでは感じながらも、3人で屈託なく笑ったり、文句を言いながらも俺のためにいろいろとやってくれる理沙の優しさを感じたり、目の前で起こる一瞬一瞬のかけがえのない幸せの、どんな瞬間も全部大事にしたかった。

翔太がもうすぐ寝付きそう、というところで俺は翔太の隣を離れリビングで二人分のコーヒーを淹れた。翔太が寝付いたのを待って、理沙も出てきた。「コーヒー飲まない?」と理沙に声をかけ、ダイニングテーブルのいつもの俺の席に座った。「ありがとう、ちょっと園カバンだけ準備してくる。」と、理沙は言って、翔太の保育園用の服を畳んだ洗濯物の山から取り、カバンに入れて玄関に行き戻ってきた。

「なんかありそうだね。」理沙にズバッと言われ、「良くわかるね。」と俺は言った。「分かりやすいよ。」と理沙は笑った。「そうか?」と言ったけど、理沙が言うならきっとそうなんだろうなと思った。

コーヒーを一口飲み、「それで、どうしたの?」と理沙が聞いてきた。前回の教訓を得て、俺は「驚かないでほしいんだけど」と前置きをした。「それ絶対驚くやつじゃん。」と理沙は笑った。会社にいるときよりははるかに元気になったものの、そんなテンションになれない俺はむっとした顔をしたらしく「ごめんごめん」と理沙に謝られた。

「俺、会社辞めようと思う。」

コーヒーカップに口をつけていた理沙の動きが止まり、目を丸くした。理沙は、手に持っていたカップを慌ててテーブルに置き、「ちょっと待って、どういうこと???」と言った。

「ちょっと待って。意味が分からない。ごめん、ちょっと混乱してきた。」理沙がテーブルに両肘をつき、頭を抱えた。少しして、「今、会社辞めたいって言った?」と聞いてきた。

「うん。」俺は答え、今日の一部始終や、この数か月思っていたことを伝えた。

いま一番大事なのは、お金を稼ぐこともそうだけど、目の前にある「翔太のお世話」を含めて、翔太を無事に育てることが、パパである俺がすべき役割であると思っていること。

運用の仕事はお金の面でも、時間の面でもそれを叶えてくれるとてもいい仕事だけど、転勤の話で考えたり、鈴本君の姿を見たりしているうちに、「翔太のため」といって、いつの間にかこの会社での仕事に疑問を持つようになった自分の本音に蓋をしていることが「翔太に誇れる姿か」ということに疑問を持つようになったこと。

開発に移ればそのままでいくと今のライフスタイルは維持できないので、結局どちらも叶わなくなること。もちろん、短時間勤務の相談はできるけど、それが今回の課長からの打診に対して、自分でも理解が追い付いていないけれど、全身でNOといった自分に正直なこととは思えないと思うと、また本音に蓋をすることを選びたくはないと思ったこと。

ぽつぽつと話しながら、翔太もいるのに会社を辞めるとか、悪くはない今の立場を捨てるとか、俺は何を言っているんだろう。そう思う自分もいたけれど、これが嘘偽りのない、俺の本音だった。理沙にも、ここまで俺の思っていることをきちんと話したことはなかったと思う。

理沙は小さく頷くくらいで、俺の顔を見ながら半ば呆然とした感じで聞いていた。途中から、俺の説明の足りないところに「いつ頃からそう思ってたの?」とか「なんで『いやだ』って思ったの?」とか質問をして、いつもの理沙になってきた感じがした。

一通り話し終わって、理沙はしばらく考えた後で、「アツトの中では、辞めるのは決まりなんだよね?」と聞かれた。「うん。」と答えた。でも、自分でもなんでそうなのかは分からない。だけど、それは譲れない意志だった。

「次、どうしたいとかは考えてるの?」と理沙に聞かれた。理沙が会社を辞めると言ったら、俺だったら「ゆっくり休めば」としか思わないけど、そういうところは理沙と違うところだ。

「今はまだそこまで考えてない。」と答えた。理沙の肩が大きく上がり、ため息のような息を吐き、「まあ、私が一馬力でも最低限はなんとかなるから、急ぐことはないか」と言った。「また働く気はあるんでしょ?」と聞かれ、「それはある。」と俺は答えた。

うーん、と少し理沙は考えて「私の給料があれば、アツトが1年くらいは働かなくても死なないくらいの貯金はあったよね?」、その言葉で俺は考え始めた。

社会人になった時に銀行の人から勧められて何も考えず始めた、毎月2万円ずつ貯めているお金が6年分あるのと、あとは、給与口座にも、ボーナスの残りや使わずに残ったお金が少しずつたまって、そこそこの金額にはなっているのを思い浮かべ、結婚するときに婆ちゃんがくれた、たしか30万円のご祝儀を親が持ってると言っていた記憶もよみがえってきた。

「うん、1年は厳しいかもしれないけど、半年くらいは大丈夫。」1年大丈夫というのは気が引けて思わず半年と言った。

それを聞いた理沙は、「あとは、失業給付とかも出るはずだしね。じゃあ、まあ、なんとかなるか。」と納得したようだった。

すると急に、理沙が笑顔になって「いいな~!!私も会社辞めたいな~!」と言い出した。180度変わった様子に今度は俺が驚いて、理沙の様子に面食らっていると、「そんなに驚かなくても」と理沙は声を出して笑った。

「いいよ。この間の転勤の話の時、アツトはうちらのために我慢してくれてるんだなーって思ったから、今度アツトが何か言ってきたときには受け入れようって思ってたんだよね。思ったより早かったけど!」と理沙は溌剌とした声で言った。

俺は理沙の笑顔を見て、心底救われた気がした。
そして、心からこの人の笑顔を守りたいと思った。


#創作大賞2024 #お仕事小説部門

1組でも多くの幸せ夫婦を増やすために大切に使わせていただきます。ありがとうございます。