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鬼婆はいるのに、なぜ鬼爺はいないのか?Part5 【仏婆と鬼爺問題】

≪これまでの流れ≫
鬼婆はいるのに、なぜ鬼爺はいないのか? Part1
鬼婆はいるのに、なぜ鬼爺はいないのか? Part2
鬼婆はいるのに、なぜ鬼爺はいないのか? Part3
鬼婆はいるのに、なぜ鬼爺はいないのか? Part4 (善悪の両義性)

イントロダクション

気づいたらこのシリーズも5回目となる。
そして、自分がこのノートを書き始めたために、Google検索等で「鬼婆 鬼爺」と調べると、上位にこれまでのノートがでてくるようになった。
ありがたいことなのか、それとも、ニッチ過ぎるために適合率が高くアナリティクスの特性で上位に上がってきているのかはわからないのだが、今回も懲りずに鬼婆と鬼爺のはなしである。

なぜ”山”姥なのか

前回、山姥と鬼婆の違いなどを見てきた。今回は、この2つの怪異の共通点をもう少し絞っていきたい。
まず山姥であるが、その名のごとく山にいることが多い。

「山姥と橋のたもとで出会って……」

という話は、耳にすることはほとんど無いであろう。
では、なぜ山姥は山にいるのか?という疑問がある。
これに関しては、民俗学者である、柳田國男と折口信夫が共通の認識をしており、「山姥は神または、巫女である。」と示している。

どういうことか?女人禁制という言葉がある。
山岳信仰において、女性はその山に立ち入ることが禁じられている。それは、その山の神が女性。つまり、女神なのである。それも、かなりの醜女であって、平地の女性の整ったお顔立ちに嫉妬するから。と、言われている。

それに関する話としては、柳田國男の「ぶさいくな魚」というのがそれにあたるが、今回ここで語ることは割愛する(面白いけど、ちょっと話が長くなるから

一方、鬼婆はどうか?というと、山に居る。
場合もあるが、平地にも荒れ地にも、とにかく多くの場所に鬼婆は住処を持っている。

ここも山姥と鬼婆の違いだと言えよう。

では、なぜこのような違いが生まれるのか?一つに、「姥捨山」が関係してくると思われる。
というのも、昔ばなしのなかで姥捨されるのは、圧倒的に女性が多いのである。

関 敬吾氏によってまとめられた日本の昔ばなしの類型などが整理された大著「日本昔話大成」
姥捨山は「親捨て山」という題で掲載されており、70話近く収録されている
(本当はもっと多いが、「○○と類系」とあったりして、それは除外してある

この中で母親・父親どちらが姥捨されるのが多いか?というと、母親が約40話。父親は15話。
残りはどちらか判別できないものとなっている(老人という書き方しかされていない)
ここから見ても、姥捨≒母親 というイメージがあることが見て取れる

つまり、姥捨される場所には必然的に女性比率が多いことになる。ということは、野に山に平地に、老婆が多く現れるという現象が生まれる。

それでは、なぜ老婆が鬼婆と呼ばれるようになったのか?
それは、次回にすることにしよう

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