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鬼婆はいるのに、なぜ鬼爺はいないのか? Part3

イントロダクション

早いもので三回目となるシリーズだが、ここでの考察を元に動画作成作っていく予定なので、僕の動画の原稿がどのように作られていくかの一端を覗けるとおもっていただければ幸いである。

さて、前回までのところで、どうやら鬼〇〇というのは、それを具体的に表す場合と、比喩表現としてそれを使うことの二つがあることが見えてきた。
今回はその比喩表現としての「鬼婆」についてみていきたいと思う。そう、なぜなら、比喩表現の「鬼爺」の具体的な使用用途がみつからなかったのである。
しかし、やはりというか、当然というか、我々現代人が疑問に思っていることというのは、先人がすでに同様な疑問を持ち、研究しているというところ。そう、今回は「鬼婆」について書かれた書物。おもに、民俗学的な視点からこれを紐解いていきたいと思う

柿の葉と蓮の葉

見出しを見て「????」となるかとおもうが、まぁ、一旦忘れていただきたい。追々その話をしていくこととなるので
まず「鬼婆」という言葉だが、じつは類似する言葉がある。勘のいい読者の方ならお気づきだろう、そう「山姥」だ。

「どうして山姥について触れないんだ?」「鬼婆も山姥も一緒だろう?なんで山姥も一緒に調べないんだ」と思った方もいるかもしれないが、じつは、鬼婆と山姥は明確に違いがあるのである。そう、じつは似ているようでこの二人は明確にやっていることも、やることも【本来は】違ったのである。

まず「鬼婆」から見ていこうとおもう。まず鬼婆という言葉とは別に「鬼女」というような言葉があるのをご存じだろうか?
昔ばなしのなかで、鬼婆が登場する物語のなかで鬼女と表記されるものがある。※数は少ないが鬼娘というものもある
実は、民俗学の中で「鬼女」というと、一般的なイメージとは到底想像できないようなあることを指すことになる。

今から去ること一年ほど前の事である、僕は一本の動画を配信した

【日本で一番詳しい生理の歴史】生理≠穢れの真実 完結編【ゆっくり解説】

きっかけは詳しく覚えていないが、確か、生理についてかなり嫌悪感を持たれているかたの発言をSNSでみたからだったとおもうのだが、どうも世間的には

生理=不浄

ということが根付いてしまっている。現実問題、血液が排出されるわけだから、適切な対応を行わなかったら、不衛生であることは間違いない。
しかし、それはいつからそういうふうになってしまったのか?もしくは、なぜそうなってしまったのか?については、実のところハッキリとしたことが分かっていないというのが現実ではありますが、いま現在、僕が持っている知識・史料・その他複合的なものと比較すると、おそらくこういう理由で、現在の印象が構築されたのではないか?という、とっても長いながぁ~い動画になってしまったわけなんだが……

脱線が過ぎてしまったが、実はこの動画を作るための史料集めの際に「鬼女」ということを目にしているのである。

柳田国男が編纂に携わった「日本産育習俗資料集成」に「石女と未婚女」という項目がある。

恩賜財団母子愛育会 編『日本産育習俗資料集成』,第一法規出版,1975.3. 国立国会図書館デジタルコレクション
石女は「うまずめ」と読む。つまり読んだそのままだ。

出産しないorできない女性

のことを蔑む隠語である。
実際に、この書籍の中にどんなことが書かれているか?というと

・理由なくして結婚しない女性のことを「小野小町」という。どんな男性がやってきても、彼女は靡かなかったことからの皮肉であろう

・メドナシと呼ぶ
文章として書ける表現でいうと、生殖活動に必要な部分が欠損している。

・カラオンナと呼ぶ
月経が来ない(空っぽ)の女性のことをいう。ここから、彼女が近くにいると作物が枯れると言われた。

と、まぁ、かなり現代では考えられないようなことが行われていた。それも、特定のエリアではなく、こういったことは日本全国で行われていた。その中で注目すべきなのは、石女を「鬼女」という地域があるという事である。また、結婚をしない女性の事も「鬼女」と呼んでいる。

この鬼女に関し、どのような特徴があるのか?も書かれていて

・心臓に故障がある
・猫背
・眉毛が非常に薄い、もしくは、無い
・血色が極めて悪い
・青白い顔色・皮膚をしている

また「生女」とかいて「キオンナ」と呼ぶ土地がある。その特徴としては、

・生女がいる土地の神社は、年に一本ずつ木が枯れていく。

このような話が出てくる理由はある程度予想できる。が、それは今後まとめて説明していきたい。

鬼娘(きむすめ)」などと呼んでいる地域もある。きむすめといったら、「生娘」のほうが頭に浮かぶのだが、もしかしたら、何か関係があるのだろうか?(宿題が増えた

キ〇〇は他にもあり、「木女房」などと呼ぶところもあるようだ。
これは、月経も無く、子供も産めない女性のことを指す際に使う。
一方、同様に月経は無いのだが、子供が産める女性のことを「竹女房」と呼んでいるとされる。

月経不順・無月経の女性に対し「石女」や「キ〇〇」と呼称する記録があるのだ。

ここまでのことを整理すると

・子供が産めない女性は蔑まされていた。
・月経のない女性も蔑まされていた(なくても、子供が産めればよい
・「キ〇〇」という呼称を使うこともある

ということである。それで「鬼婆」についてだが、僕たちはこの字ズラを見て「オニババア」と呼称していたが、それは間違いなのではないか?
キ〇〇のルールで言うのであれば「キ 婆」と呼ぶのが本来の形ではないのか?
では「婆」はどう読むのか?キババアなのであろうか?

同書籍の中に、このようなことが書かれている。

未婚に終わる女性には、妊娠を恐れるあまり結婚しないものがいる。終身未婚の女を「オバア」「オバ」という

今のところそういったソースは見つからないが、つまり「鬼婆」というのは、本来は「キオバア」「キバア」と呼ぶのが正しいのではないだろうか?

そうすると、鬼婆はいるのに、鬼爺がいないことにも一定の理由が見えてくる。

前回、鬼婆という存在を指す「固有名詞」的な鬼婆と「比喩」としての鬼婆の二つがあると指摘したが、それは大きな検討違いをしていたのかもしれない。

つまり、どういうことかというと

鬼という漢字はあくまでも当て字であって、本質は「キ」という語彙にあり、それは「出産能力がない」という隠語であったのではないか?

だから、キを表す鬼 という語彙を男性を指す「爺」に接続することができないのではないか?

「鬼は鬼だろ!?何言ってるんだこいつは。」と思われるかもしれないが、鬼は鬼である。今話をしているのはキであって、鬼ではない。あくまでも鬼というのは当て字であって、この場合の鬼に、角が生えて金属のこん棒をもってという鬼の要素はないのである。

さすがにこんなところまで柳田国男は指摘をしていない。
あくまで僕個人の希望的観測から抜け出せないでいる話だが、で、あれば、古き日本人の言葉の中に、鬼爺という文字がないことにも頷ける。

そう、なぜなら。男性はそもそも、出産をすることができないのであるから

では、タイトルにあげた 柿の葉と蓮の葉 というのは、どういうことか?
柳田国男の著書「先祖の話」の中に、この見出しの章がある。
この章にはこのようなことが書かれている。

以前は遠い田舎では、子の無い老女などを罵って、「柿の葉めが」と言ったという話がある。~中略~
柿の葉は本来素朴の世の食器であった。土器や木地 曲物類のいろいろの取り揃えられる世になっても、なお無縁さまに供する食物だけは、この昔風をあらためようとはしなかったのである。柿の葉は後に里芋の葉ともなり、主に蓮の葉は仏法と縁があるので、今でも一般にこれを使うとしている家々がある。

先祖の話「柿の葉と蓮の葉」 著 柳田国男

子のいない、子が産めなかった女性というのは、生涯辛い思いをし、死してなお成仏すらさせてもらえない。そういう時代があったということを忘れてはいけない

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