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鬼婆はいるのに、なぜ鬼爺はいないのか?Part4 (善悪の両義性)


イントロダクション

前回、鬼婆と呼ばれていたモノ達の大まかな輪郭が見えてきた。
これからどういうアプローチでこの話を進めていくかというと、昔ばなしの中に見える鬼婆と類似した「山姥」との比較をしたい。と、おもうのだが、それよりもさきにやらなくてはいけないことがある。

山姥・鬼婆・魔女

山姥と鬼婆は、昔ばなしの中にとてもよく出てくるキャラクターである。
しかも、どちらもその特徴は似ているように感じられる。
しかし、この両者はあまりにも性質が似すぎているために、具体的な違いの判別がしづらい。そこで、西洋の山姥「魔女」とも比較をしてみることにする。
と、いうのも、西洋の物語には、このような異形の存在が魔女以外にいないからである。と、いうことで、まず特徴をあげてみるとこういうことになる

・山 森に棲む人食い鬼婆である。
・醜怪な老婆にも、若い美女にもなる。
・空中飛行、変身能力がある。
・善悪両義性をもつ

民間説話・伝承における山姥、妖精、魔女
高島 葉子

上記4項目のうち、個人的に上三つは理解ができる。空中飛行は魔女だけでは?と思うかもしれないが、山姥や鬼婆は異常な身体能力をもちあわせていることが多いので、その要素として見てみればいいと思う。
問題なのは、4番目の【善悪両義性をもつ】というところである。
これに関しては慎重に考察しなくてはいけない。なぜなら、鬼婆にこのようを見出すことは難しいと思うからだ

ということで、まずはこの「善悪両義」という部分をみていきたいのだが、山姥と鬼婆が出てくる昔話の中に、僕の一番好きな「糠福米福」というものがある。
糠福米福という話を知らない方も多いかもしれないが、一言で言えば和製シンデレラである。あらすじはこんな感じで

女主人公の母親が亡くなる

継母と継母の実子がやってくる

継母が実子を可愛がり女主人公(継子)を虐める

女主人公に無理難題を押し付ける

女主人公に援助者が現れる
↓ ↑(多くの場合3回行われる
援助者のおかげで女主人公は難題をクリアする

女主人公に試練が与えられる

試練をクリアし幸運を得る

というような感じである。この構造がシンデレラの構造と似ているため、和製シンデレラと呼ばれている。

今回調査するために手元にある史料として 関 敬吾氏が編纂された 「日本昔話大成」に収録された58話の物語を比較してみた。


ちなみに、日本昔話大成というのは、日本の昔ばなしを細かく分類分けし、また、どの地方にどのような形で語られているのか?というものを刻銘に記したものである。のちの時代に、小澤俊夫氏を筆頭に、昔ばなしの専門家たちによる、さらなる大型の日本の昔ばなしの分類書「日本昔話通観」というものも出版されている。喉から手が出るほど欲しいが……一冊数万円規模なので、誰か買ってほしい(31冊ある

さて、この援助者という部分、大半が女主人公の亡き母親の幽霊なことがおおい。
女主人公の唯一の心のよりどころ、難題を押し付けられたときにそれを打ち明けに行く場所が、亡き母の墓前であった。亡き母が女主人公の援助者として現れるのである。
また、鳥がやってくる。というパターンも多く確認される。
昔ばなしのなかで、鳥というのは彼岸の使者だという考えがある。というのも、鳥は空からやってくる。以前も紹介したが、日本人の感覚的なものの中に屋根よりも高い世界というのは、彼岸の世界だという考えがある。
よって、鳥は彼岸の世界から女主人公を援助するためにやってきたモノだと読み取ることができる。この話に限っては、先ほどと同様に女主人公の母親だと解釈することが多い。では、肝心の山姥と鬼婆だが、今回調査した58話の物語中、山姥が援助者として現れた話は13話。いっぽう、鬼婆が援助者として現れた話は1話。
ただし、女主人公が「鬼の宿」に行ったという話が3話あったため、これを鬼婆の家だと見た場合は4話あったことになる。
が、圧倒的に山姥のほうが多いのである。ここからもわかるように、日本人のなかに、山姥は援助者としての要素を持っている。一方、鬼婆は援助をするような存在ではない。ということを理解していたという事になる。

よって、4番目の項目「善悪両義性をもつ」という箇所が、鬼婆には適応できない。ということになるのである。


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