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鬼婆はいるのに、なぜ鬼爺はいないのか? Part1

イントロダクション

昨日、「本当は恐ろしいグリム童話」にまつわる白雪姫シリーズの動画完結編を、無事にアップすることができた。
サムネイルをどうするか悩んだが、結局こうなった
インパクト重視のサムネというのはあまり好みではないが、ただ、このシリーズを始めるにあたっての一番の理由
「白雪姫の王子って死体愛好家なんでしょ?」
っていう話からスタートしているわけだから、ここはしっかりとそれをアピールしようとおもったら、こうなった

ここ最近はボチボチと再生される(ドカーーーンということはまずない)ので、今回もボチボチと再生されることを願って、次の動画づくりのための史料集めを始めることにする

鬼爺

次回の動画のテーマはきまっていて、せっかくグレートマザーを掘り続け、色々と資料等々も集めた。しかし、そうした集めた事柄の7割くらいは使われずにお蔵入りになることが多い。実際、史料集めというものはそういうものである。
ただ、そうしたものが後々役に立つので、全く無駄になる。ということはない。

それで、次の動画にしたいと思っているのは

鬼婆はいるのに、鬼爺がいないのはなぜか?

不思議なものである。「鬼婆」という言葉に何の違和感も感じない。しかし「鬼爺」というと、途端に口周りがモヤモヤし、頭の中にもゑもいわれぬモヤモヤが浮かんでくる。

と、いうことで、本当に日本人の語彙のなかに「鬼爺」という言葉はないのか?
こういうときに便利なのが、現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)である
国立国語研究所が提供している、日本の書き言葉や話し言葉などに使われる単語や使用用途などを分類して検索できるようにしてくれている、研究者にとってはありがたいの極みともいえるものである。

さっそくコーパス「鬼爺」と検索してみる
対象検索サンプル数:172,675
検索対象語数:124,100,964
到底個人では到達できない数からヒットした数は

何度見直しても0
え?本当にないの?と、思ってしまうが、何度やっても0

これからもわかるように、日本語の語彙に「鬼爺」が一般的ではないことが伺える。

では「鬼婆」はどうだろうか?
対象検索サンプル数:172,675
検索対象語数:124,100,964
同様の数から出てくるヒット数はというと

54

え?少なくない?と思うかもしれないが、それくらいであろう。むしろ日常的に鬼婆という機会のほうが恐ろしい

しかし、この「鬼婆」という言葉。実に奇妙で不可解である。

「鬼にならなくてはいけないこともあります。全くです。私は鬼婆でございます。静かな気持ちのいい笑いが三人を包み込んだ」

つまりこれは【心を鬼にする覚悟】という意味での「鬼婆」であって、実際の「鬼婆」ではない。

では、僕が探している昔ばなしの中にいる「鬼婆」はというと、「妖怪ばあさんのおくりもの」という書籍の中にそれは登場する。どうやらこれは、絵本のようである。ただ、ありがたいことに、この鬼婆の特徴が克明に記されていて

・耳まで裂けた口
・紺色の野良着からはみ出した細い腕

「鬼婆」という言葉が使わていることはその後も確認できるが、文脈からして、比喩として鬼婆を使っているようで、僕が探し求めている「鬼婆」が次に現れるのは「こども講談 昔屋話吉おばけ話」という書籍である

どこで切っていいのかわからなくて調べたら「話吉」という青年が、怖い話を求めて旅をするという物語ということで、 昔屋・話吉 とするのがいいようだ。では、どこででてくるのか?というと

「安達ケ原には、その昔、人を殺してその肉を食べる「鬼婆」がいたという伝説があります。」

地理はとんと弱いので、安達ケ原をwikiで調べてみたところ、福島県の地名ということである。そして、そこで興味深いことを発見する。

なんと。wikiに堂々と鬼婆について触れられているではないか。しかも、もしかしたら、埼玉県の話かもしれない。とまで書かれている。

とりあえず安達ケ原の鬼婆について調べてみると、天台宗・真弓山観世寺(まゆみさん かんぜんじ)に遺留品が残されているらしい。さらに、学が無いというのは哀しいもので、この安達ケ原の鬼婆というのは能の演目の一つにもなっているということ。

さて、ここで新たな疑問が生まれる。この、安達ケ原の鬼婆は伝説として語り継がれており、この寺の開基「祐慶阿闍梨(ゆうけいあじゃり)」に由来すると言われている。

少し、この安達ケ原の鬼婆伝説について、調べてみることにしよう

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