見出し画像

居心地の良い場所

この前の連休に2泊ほど実家で羽を伸ばしてきた。帰ろうと思うんだけど、と連絡する度に無理せんでいいよと言うわりには、ずっと会いたかったんだろうなと思わんばかりの嬉しさを振り撒いている両親を見て、やはり帰れる内に帰った方がいいなと思った。


コロナが流行り出した頃、都内周辺が一番感染者が多く、地方への帰省は控えるようにとのニュースが飛び交っていた。そんな中帰省した人が感染源となり、瞬く間に感染者が増え、病床は溢れ返った。医療従事者が悲惨な環境ながらも、懸命に働いてくださったことには頭は上がらないし、感謝してもしきれない思いなのは間違いない。しかし、高齢の親を持つ人や、もうこの先ずっと会えなくなるかもしれない、どうなるかわからないという環境であれば、帰省のひとつもしたくなる気持ちも痛いほどわかる。

こういう時、何が正解だったのだろうと切ない思いを抱くことがある。帰省せずに家で過ごすことが感染者を増やさない一番手っ取り早い方法だとしたら、そうするに越したことはない。ただ、不幸にも親の死や新しい命の誕生に立ち会えなかった人はどうなのだろうと。他人のことだから仕方ないで済むのだろうが、仮に私がそうだったら一生コロナという存在を憎んでいたかもしれない。

私達は人間だが、世に溢れる生物というものの中の一部であり、特段偉い存在でも何でもない。宇宙規模で見れば人類の開拓した年数は地球が出来た年数の1日分にしか当たらないらしい。まあなんとちっぽけな。それでもその中のひとりひとりが何かを抱えて生きているんだなと思うと、こんなに尊いものはないなとも思える。蟻の巣を見ながら、懸命に生きている姿を実感することに似ているような気がする。


コロナで生き方に焦点が当てられ、今まで以上に生き方に重きを置く人も増えたのではないだろうか。そして、幸せに生きていける居場所にもこだわる人が出てきたように思う。自身を優先するということは、本来なら他人への配慮なんかしている場合ではない。ただ、身を預けられる居場所ともなれば、どんな自分も受け止めてくれるような安心感のある場所だと思う。互いがストレスに感じない空間…肉食動物と草食動物の生き方が違うように、人間にもそういった居場所の違いはあっていいし、違いを認めることが平和への一歩だと思っている。ちなみにこれは、嫌いな人を好きになれとか、自分が思っていることを捻じ曲げろとか、そういうのではなく、あの人と私は違うんだという事実を認めるだけでいいということ。


私の音楽がなくなって困る人はいないかもしれないが、出会えてよかったと言ってくださる方が少なからずいたことが、今は救いとなっている(音楽で人を救えないと分かっていても、誰かに寄り添えるものをと思って作っているにも関わらず、私自身が救われているという。もう本当に…ありがとうございます)。自分だけが救われても仕方ないので、これからも与えられる存在でありたい。

音楽は絵のように視覚的なものでなく、もっと抽象的な、実態に触れられない存在だからこそ、居場所を作りやすいのではないかとも思っている。作り手が多種多様であればあるほど、居場所が増えていい。芸術は古典的なものだと、歴史的背景の抽象化が多いイメージだが、近代になるにつれてそれが日常の切り取りになったり、いつか見た光景の再現だったりして、実はだんだん幸せを感じるようになってきているのでは?と思う。個々の多幸感とはまた別だが、幸せになれる環境は多分今が一番整っているのではないだろうか。


幸せと居場所というのは近いところにある気がしている。結局、精神的に落ち着けるところが一番居心地がいい。私だったら家族のいるところと、外だったら人のいない自然に囲まれたところ。鳥の囀りだけでも、何だかひとりじゃないんだなと思える。この世界は人間だけが生きているわけではない。いつから人間様になったんだろうか。もう少し謙虚に生きたいものだ。


tohma



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?