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感じるもの


最近参加した深夜の2時間DTMの曲が思いの外、聴いてもらえているようでありがたい。シンプルで、素朴で、何の変哲もないけれど、どこか懐かしさやあたたかさを感じてもらえたらなあと思いながら制作していたので、素直に嬉しい。

その作品は以下のリンクより、もし興味のある方は覗いてみてね。


日本は奥ゆかしさや直接的でない言葉に美意識を持っている。例えば小説なんかも、普段使わない言葉回しや、知らない用語などが散りばめられていたりして、それを美しいと感じることがある。
しかし、表現=伝えるという、伝わらないものに価値がないというような考え方が、現代は浸透しすぎている気がする。伝えるということは義務ではない。勿論、伝われば嬉しいけれど、見る人全てが同じような感性を持っているわけではない。

こんな話をすると思い出すのが、在学時代。これは伝える側でなく、自身の感性にまつわる話。出演する教授に誘われてコンテンポラリーダンスと現代音楽を掛け合わせた演奏会を観に行ったことがあるのだが、よくわからなかった記憶がある。その人の表現したいものや、意味みたいなものを文章化されたパンフレットを見ても、何も感じなかった。へえ〜とも思わなかった。一緒に観に行った同期は、良かったとか何とか言っていたけれど、私には良さがわからなかった。そして、良さがわからない私は、感受性に欠けているという目で見られた。


感じなければならないという状態を強要されること自体が感性の妨げであることは言わずもがな。それを理解するのに何年も必要な場合だってある。私自身、その昔無意識に聴いていた音楽やよくわからなかった音楽を、最近になって理解できるというか、何かを感じられるようになったことがある。感じることは何もリアルタイムである必要はない。だから、もし私と同じような経験をされた方がいたら、気に病まないで欲しい。それはあなたの感性に問題があるわけではなく、個性であり、時と共に変化していくものだから。

素直にいいと思ったものに感動すればいいものを、全米が泣いただの、作品に過度な期待と先入観を持たせる広告は正直苦手である。芸術に価値を見出していない、もしくは関心の低い、そして金にしか興味のない者が芸術に関わると碌なことがない。話題になっているものほど興味をなくす体質も、勝手な植え付けによる色眼鏡で判断しかねないという理由から、避けてしまうことが多い。なので、作品と対等に向き合いたい私は、いつも話題のものは時差でチェックしている。鬼滅の刃はまさかのシュールギャグで意外と面白かったが、私はあまり読み進める気にはならなかった。単に私の嗜好の問題である。

世に生み出された沢山の芸術作品は、人の数だけある。そして、感性もその数だけ存在する。私は何をしている人かと言われたら作編曲家なので、それを名乗っているが、心持ちとしては凡ながらも芸術家でありたいと考えている。自身が美しいと感じるものや、感情のようなよくわからないものを音にしてみたい。伝えたいと思う気持ちは偶発的なもので殆どなく、それよりは拠り所を作りたいという気持ちの方が大きい。この辺りに関しては自身が歳を重ねることで変化し続けるものなので、言い切れるものではないが、今はそういう気持ちで臨んでいる。


や〜今日は沸々と煮えたぎっていたものを吐露してしまいました。何ならラジオで延々垂れてしまいそうで、文章化してまとめて正解だったな…(笑)
ぼかした言葉でいい人振れるような器用な人間でもなければ(する気もない)故に、いつもこんな調子で…それでも興味関心を持ってくださる方がいて、ありがたい限りです。
読んでくださり、ありがとうございます。

それでは、また〜


tohma

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