月光散歩
「お月様が着いてきて怖いんです」
いつもの帰り道で、呼び止められた。
この時間、と言ってもまだ22時を回った位の、夜更けには違いないが、まだ真夜中には程遠い仕事帰りの歩き慣れた路上は、1年で1番寒い2月だからか、今日もほぼ無人だった。
振り返ると、5.6歳だろう見知らぬ少年が袖を掴んでいた。
「一緒に着いてきてもらえませんか?お家、すぐそこなんです」
ご両親は、と尋ねると
「お家で待っています」
とだけ答える。
果たしてこれは新手の美人局なのかもしれない、幼児を使うだなんて、と馬鹿げた警戒をしつつ、少年と辺りを見回してみても、アスファルトには止まれの文字が横たわっているだけだった。
何故、とか、どうして、とか疑問は尽きないが、「お月様が着いてきて怖いから一緒に着いてきてほしい」という誘い方はとても魅力的に思えた。
少年、末恐ろしい。
いいよ
そう言うと、少年はにっこりと笑みを浮かべ、わたしの手を握った。子供特有の湿度のあるあたたかな手だった。
「お月様、僕にだけ着いてくるの?みんなにも着いてくるの?」
たぶん、みんなに着いてくるよ
「そうなんだ。それじゃお月様は忙しいね」
お月様が怖い少年は、角まで来ると勢いよく手を離した。急に振りほどかれた手は、空に取り残されて変な形で浮かんだ。
「じゃあね、ありがとう。僕はとても……」
遠くの方で犬の遠吠えが聞こえ、最後の言葉は聞き取れなかった。
そのまま少年は踵を返して軽やかに走り、本当にすぐそこの玄関に消えていった。
空を見上げると、スプーンですくったゼラチンのような月が見ていた。満月に見えるけど、もしかしたら満月では無いかもしれない。
あれから数年。
同じ道を同じ時間に帰っても、あの時の少年には会えていない。
日常の延長に少しフェイクが混じる、そんな話を書いていきます。作品で返せるように励みます。