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雨上がりのGRWM

今日も朝が来た。朝だね、朝だよ、朝か……。

ずっと夜でいいよ、まだ眠いし。
アラームに抗って何度目かの寝返りを打つ。スヌーズは強敵だし、朝は誠実で真面目、必ず正々堂々やって来る。

目が開かないのもいつもの事で手探りでスマホを探してそのまま呼び出す。

Hey,siri. 今日の天気
「ゲンザイ アメガフッテイテ キオン ハ 7℃ デス」

今日も雨だった。雨だね、雨だよ、……雨か。

この街は繁華街に近いから、澱んだ思いがふり積もって灰色に沈殿している。だから、雨が降ると溜まった穢れが洗い流されて浄化されているみたいだといつも思う。
つまり、ここ数日降り続いている雨は、余程この街が汚れているってことなのかな。

1度思い切り丸まって、停止。

そのまま伸びて、ようやくもそもそと起きる。
ティファールでお湯を沸かしている間に洗顔、鏡の中の顔色は今日も寝不足と低血圧で真っ白だ。

生きてるか?

歯を磨いて寝癖と格闘。たぶん直ってないけどもういいや。白湯を飲んで身体をあっためて、ようやく着替える頃には時間はギリギリだ。

出掛ける前、一人暮らしを始めた頃に貰った観葉植物に水をやる。すぐ枯れるかと思いきや案外しぶとく、スパティフィラムとカラテア・レオパルディナとアジアンタ厶は、今じゃ名前も覚えたしすっかり大きくなった。

これから更に成長して増殖し壁を覆い天井を這いジャングルになる部屋を想像。

……緑化が進むのはいいけど生き物が怖い。

虫も蛇も東京で生息しているやつらより絶対エグいし、ホワハッハッホーキュルルルキィーッなんて声で鳴く姿の見えない怪鳥も近隣から苦情殺到の騒音レベルだし、常に茂みから生命を狙われる猛獣との共存も怖いよなぁ。

……目下、どうでもいい悩みリスト不動の第1位だ。朝の貴重な時間はこんなことを考えているとあっという間に過ぎていく。

ところで、モーニングルーティンのことを、始めてGRWMと呼んだ人は朝が弱い人だったんじゃないかなと思う。

GRWM=「Get Ready With Me」

一緒に準備しよ?っていうのはつまり、一人じゃねむみに勝てないから、「一緒に頑張ってこの試練に打ち勝つんだ!なぁそうだろ?」って事だと思うけど、YouTubeに上がっている殆どのGRWM動画は時間にも心にも余裕がある天上人の戯れだ、あれはファンタジー。

さて、そろそろ行ってきます。

妄想の中のジャングルを薄いドアに閉じ込め、鍵を締めながら心の中で呟く。

傘が行き交う交差点を歩道橋の上から眺めるのが好きだ。ビニール傘がクラゲのようにゆらゆら揺れては離れたりくっついたりしながら流れに流されどこかへ向かう。

透明と黒と紺色にたまに混じる、色とりどりのちゃんとした傘のクラゲ達は、人生をきちんと真っ当に生きている気がして、少し眩しい。
モノトーンの世界にカラフルな点描。

駅。電車の中。

新型コロナウィルス以前と以後の大きな違いのひとつに、電車の中の静けさがあると思う。
人は確かにそこに居るのに、話し声のない薄い影のよう。
みんなスマホを見ているのは、これは前からずっと同じ。一人一人、個別の世界。

隣の人の傘から滴る水滴が、足元のすぐ傍に水溜まりを作る。イヤホン越しに漏れてくるドラムの音がやけに鮮明だ。

窓ガラスに雨が当たって砕けて流される痕跡をじっと見ていると、焦点があやふやになって瞬きを繰り返す。

「ねぇねぇ横断歩道では白線だけ踏んだよね?」

当然。
じゃあ、車や電車から外見てる時、自分の分身が、ガードレールとか外壁の上とか、屋根とか、とにかく地面じゃない部分を忍者のように走って落っこちないようにしたことは?

「あるある!……うわぁ、ここからあそこは距離遠いよー、飛べるかな?とか考えてた」

にっこり。

「じゃあさじゃあさ、雨が降ってくる前に、金魚の水槽みたいな匂いすると、こう、ぐわーって胸が締め付けられてさ、家にいるのにホームシックみたいな感じになったりした?」

あー、わかる。
それ、校庭の土埃の匂いでもならない?

「なる!あと、帰り道どこからともなく香ってくる玉ねぎ炒めてる匂いとか!」

香りといえば、
「「キンモクセイ」」
にっこり。握手。

些細なやり取りが不意に蘇る。
あの時、誰と話したんだっけ?

雨が降る前の匂い。
石のエッセンスを意味するぺトリコール。

雨が降ることで立ち上がるアスファルトや土埃の匂い。けしていい匂いではないのに、何故それを懐かしいと思うんだろう。どうして記憶の断片を浮かび上がらせるんだろう。

「ねぇねぇ、世界ってなんで世界って言うか知ってる?」

知らない。

「世は時間、界は空間。過去・現在・未来の三つが世で、東西南北上下が界だよ」

……一体、誰と情報共有したんだっけ。

いつもの駅で降りる。湿度が皮膚から浸透して脳までふやけていくみたいだ。ターミナル駅だから、ホームから改札へ向けて人の流れは早い。

残像になって『過去』から『現在』、『未来』へ流れていく。
会社への道のりは最短ルートで足が覚えているし、頭の中がどこか違う『空間』にいても勝手に連れて行ってくれる。はず、なのに。

大量の人を吐き出して、また大量の人を収納した電車が走り去ると一時的にホームはまばらな空洞になる。

ぼんやりと立ち竦む。

雨。雨の雫。点と線。

空から地面へと点線が結ばれて、キリトリ線に沿って世界が分断されていく。

朝起きた時は、確かにいつもの日常で、いつもの布団、いつもの部屋、いつものルーティン、いつもの街。だった、はずなんだ。

「つまり世界ってさ、僕たちを包む全てのことだよ」

少しだけ別次元に来た気がした。
柔らかい白い気配がした。見上げる。

雨上がりの匂い。
大地の匂いを意味するゲオスミン。

「合図するから、準備が出来たら教えて」

準備はまだ出来ていない。
だから、僕と一緒に準備から始めよう?

この世界、過去現在未来、東西南北上下が


日常の延長に少しフェイクが混じる、そんな話を書いていきます。作品で返せるように励みます。