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言葉の持つ力について思うこと

私は言葉が好きだ。その場ですらすら自分の思いを上手に語ることはできないから、文章に残す方が好きだ。思いを残せる。形になる。その後も残る。だから良い。

自分の学生時代のことを思い返したときに真っ先に思い浮かぶのは、教師からもらった温かい言葉、クラスメイトが何気なく放った私を肯定してくれる言葉、その反対に心ない言葉等の数々。教室や部活の風景など、何かの景色(シーン)が先行して思い浮かぶのではなく、心に刺さった言葉を言われたシーンがまず頭に浮かぶのだ。その当時の様子を驚くほど鮮明に描くことができる。

私は幼い頃基本的に敵をつくりたくないと思っていた。いや、今だってそうだ。特に転校を繰り返していた中学に上がる頃までは特にその思いが強かった。大体愛想良くしていた。「八方美人だね、って〇〇ちゃんが言ってたよ」と、仲が良いと思っていた友人に言われたシーンが頭にこびりついている。私は「勝手にそう言っておけば」と思えるような図太さも持ち合わせていたので、さらさら直す気は無かった。でも、未だに鮮明に思い浮かぶということはそれなりにその言葉が引っかかっていて、自分なりに思うところがあったからだと思う。こうやって言葉は人のやわらかい心に突き刺さるのだ。なんて容易だ。


こんな思い出もある。「通信簿に”性格”の項目があれば良いのにね」と高校のときの国語教師に嫌味を言われたことが何度かある。文系だった私だが、古典(特に漢文)があまり得意でなく、テストの点も揮わなかった。その教師に提出物を出しに行くと時々そんな言葉を掛けられた。そう言われたときあなたはどんな思いがするだろう?聞き手によっては受け取り方が違うはずだ。私は片田舎の※自称※進学校に通っていた。成績は基本的に中の下を漂っていた。「できる人ってきっともっと世の中にたくさんいるんだろうなー」と思いながらぼんやり過ごしていたので、高2の途中くらいまでは大して成績についてそこまで気にかけていなかったのだ。だからその言葉は私にとってあまり”嫌味”としての役割を成さず、反対にめちゃくちゃ褒められた気持ちになっていた。言われたその場で、へらへら笑っていた。まんざらでもなかった。今思うと、確かに私の内面を認めてくれつつも、主に皮肉と併せて発破をかけることが目的だったのだろうと思う。私は今でもこの言葉を思い出して、少しほっこりした気持ちになることがある。なんとも”単細胞”的な私の思考回路に感謝だ。


そうやって今までに出会ってきた人たちにもらった言葉が私を形成しているのだと思う。ふとした瞬間に思い出せるからだ。文章にせずとも口から発せられた言葉が全て私のことをひそかに、でも確かに、支えている。だから言葉は偉大だって感じるし、その力を信じている。


昨今SNSで数えきれないほど見かける残酷な言葉を見るたび、心が痛む。そういう言葉をつらつらと垂れ流す人は、自分を愛せていないから他人のことも大切にできないのだと思う。混沌としたこの世の中だからこそ、何を信じて良いか分からないからこそ、自分のことを信じて心から愛せない限り、そういった誹謗中傷は永久にこの世から無くならないだろう。

以前私は、自分の良いところを100個紙に書き出したことがある。”良いところ”が尽きたら「〇〇が好きなところ」とかそういう点でもOKだ。それを見ると自分のことを少しだけでも愛おしく思えるはずだ。

私は周りの人に「あなたのこんなところが素敵だよ、好きだよ」って言葉をいつも掛けられる人でいたい。その言葉がその人の盾になってくれるタイミングが来るかもしれないから。



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