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誕生月の雑記と音楽雑感:年輪と周回軌道

 まだ日中は陽射しが強いが、秋分の日ともなると風はからりと乾いて気持ちが良い。陽が落ちるのが随分と早くなったな、と思っているうちに秋分の日も過ぎた。

 夏が終わって空気の匂いも変わるような気のするこの時期は、1年の中でもとりわけ好きだ。9月生まれだから余計にかもしれない。と言いつつ、たいてい自分の誕生日の頃はまだ残暑が厳しくて、それから1、2週間ほどたつとようやく秋らしさが感じられるようになるので、あと何日か遅く生まれていたら尚よかったなどとしょうもないことを考えたりする。

 この時期に聴きたくなる曲というとたいていはその季節らしい曲を選ぶところだろうが、私の場合、なぜかフジファブリックの「バウムクーヘン」を聴きたくなる。

「茜色の夕日」とか「赤黄色の金木犀」とか、フジファブリックに限ってもこの時期にぴったりの曲はほかにも色々あるにもかかわらず、なんとなくこの曲を選んでしまう。秋のライブで何度か聴いた時の印象が強いせいなのか、あるいはこの季節特有の人恋しさゆえなのか、その両方か。

「バウムクーヘン」について、そういえば去年の冬にも書いていた。

 ごく個人的な、普通なら人に見せないような内奥のところを開いてみせるような歌詞と、その重みに不釣り合いなぐらいの、いや、かえってバランスが取れているのかもしれないポップな曲調。たとえばギターのパワーコードのがっしりした音、バウムクーヘンの円周を連想させるようなシンセのリフ、サビに入る前のユニゾン等々のキャッチーなフレーズだとか。聴けば聴くほど、どの要素も愛おしく思えてくる。
 
 なんというか、この曲のことを私はよき友のように思っているのかもしれない。上のnoteにも「あったかい部屋でブランケットでもかけてやって、美味しいコーヒーだとかお菓子だとか、何でもいいからほっとするものを出してあげたい」などと書いていた。今これを書きながら気づいたが、私が秋にこの曲を聴きたくなるのはこのイメージのせいだろうか。

 ところで、「バウムクーヘン」について、作詞作曲者である志村さんが端的にコメントしている記事があった。

 一枚の生地ではあの食べ物はできなくて、年輪のように何層も重なることによってできるわけで、僕という人間もフジファブリックもいろんな人やものやことから徐々にいろいろなものをもらうことによって形になるんですよね。そういうことを歌ってます。
(『FAB BOOK』所収「CD&DLでーた」CHRONICLEインタビューより)

 私自身の話はどうでもいいのだが、さっき9月生まれと書いたとおり、少し前に誕生日を迎えた。当たり前だが年齢は誕生日が来れば勝手に増えていく。ここでいう「年輪」は、それとは違う。出会った人、もの、ことから知ったことや得たものを自分の一部として積み重ねていくということ。もらう、というのは一見すると受動的にも思えるけれど、これは双方向のやり取りであるはずだと思う。
 自分にとって生きて行くこと、年を重ねることというのは、ただ年齢だけ増えていくことではなくて、「年輪」を刻んでいくことになっているだろうか、今まで刻んできた「年輪」はどういう形になっているだろうか――と自問するとやや辛いものがある。

 バウムクーヘンのぐるぐると連なる円周をイメージしながら年を重ねることに思いを馳せていたら、また別のバンドの全く違う曲を思い出した。

 BUMP OF CHICKENのアルバム「orbital period」に収録されている「voyager」と「flyby」という2曲。さっきの「バウムクーヘン」が他者との関わりについての曲(ただし、その中で自分自身の内面にも入り込んでいる)だとしたら、こちらは自分との対話であるように聞こえる。

 アルバムタイトルの「orbital period」は公転周期のこと。説明するまでもないかもしれないが、「voyager」は人工衛星の名前。「flyby」は探査機が惑星や衛星を観測するために行う接近飛行のこと。この話はそういえば以前、BUMPの「Gravity」について書いた時にもしていた。

 関係ないが、「Gravity」について書いた文章をいま読み返すと、我ながらその分量と熱の入れように恐れ入る。曲の力がそれだけ強いということだろうけれど。

 話を戻すと、この2曲のほうの円周は打ち上げられた衛星の描く軌道で、それは地表からどれだけ離れても周回軌道上にある。
 地表と衛星は何の比喩だろう。現実と理想、過去と現在、本音と建前。未だにはっきりした答えがあるわけではないけれど、いずれにせよどちらも自分自身なのだとは思う。どれだけ離れても続いている、自分自身とのコミュニケーションについての曲。

 公転周期という言葉で、こちらも年月の経過を思わせるところがある。ただ、さっきの「バウムクーヘン」の円周が積み重ねによって形作られ、変化していくものだったように思われるのに対して、こちらの円周はずっと変わらずにあるもののように見える。他者との関わりの中で形作られていく部分とは別にある、ひとりの確固とした人間として自分を繋ぎとめている不変のものがあるような、そんな印象を受ける。それは同時に、自分は他者にはなりえないという当たり前の、それでいて寂しい、人間の本質でもあるように思っている。

 他者とのコミュニケーションによって積み重なり、形作られていく円周と、自己とのコミュニケーションによって確かめられる、ずっと変わらずにある円周。年輪と周回軌道。そのどちらも抱えて生きて行くものなんだなと、なんだか脱線に脱線を重ねて妙に大仰な話になってしまったのは、私が年を重ねたばかりだからか、あるいは秋だからか。

 抱えて、と書いたが、過ぎ去ったものを何でもかんでもずっと抱えていくのが良いとはあまり思わない。バウムクーヘンの「年輪」を刻む過程というのは、他者から得たものを全部積み重ねていけば良いというものではないはずだ。というか、それはそもそも無理な相談だろう。結局のところ、自分の周回軌道上からは離れられないのだから。

 そんなわけで差し当たっては、自分の理想と違うところも「それもいっか」と受け入れつつ、「ひとりきり」の寂しさも自覚しながら、「少しでも君に届いたらいいな」という祈りも忘れずに、「気づかずに通り過ぎて戻らない日々に手を振って」なるべく軽やかに歩いて行く生き方がよかろうというところに落ち着くのである。


 連想ゲームのように書き進めるうちに、何の話だったか忘れてしまった。そして結論もない。
 ただ、ひとまず言えることがあるとすれば、ここに挙げた曲というのはたぶん私にとってある種の指針のようになっているもので、それはちゃんと「年輪」として刻まれているんだろう。それがわかっただけでもよしとしよう。

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