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新年の誓い 盛岡南部火消

2023年1月8日(日)盛岡市消防出初式が行われその後市内中心部にある岩手公園(盛岡城址公園広場)で行われました。その後大通り商店街、映画館通りへと向かい、およそ400メートルをゆっくりパレードしました。

壮観な消防パレード

パレードには盛岡市消防団、消防署の署員など550名、消防ポンプ自動車など34台整然と行進しました。

いつもは、地域の安全を守る役目として縁の下の力持ちのような役目が多い中、この一日は
「主役」です。
堂々と歩く姿に沿道の観覧者は大きな拍手を送っていました。

「南部火消」と、江戸の大火

盛岡市消防のルーツといえるのが、かつて盛岡が南部藩だった時代に、江戸でも活躍し名声をとどろかせた「南部火消」です。

南部火消分団別半纏

盛岡市南部火消年表によりますと
1641年(寛永18年)1月29日に起きた「桶町火事」は、夜11時ごろ江戸京橋桶町1丁目北側の薬煎じの松庵より出火し大火となり、民家1930戸、武家屋敷130軒を焼失し、死者は数百人という大惨事となりました。
この大火の時、江戸にいた南部重直公は遠慮謹慎中にもかかわらず臣下を引き連れて消防に大活躍しました。そして、将軍家光公により大変なお褒めをいただきその罰を免除されたといいます。
重直公はもちろん家臣たちはこの御恩赦に感激し、その後消防の任を大いに研究したそうです。

その後、1650年(慶安3年)には、盛岡城下にも城下火廻番(じょうかひみまわりばん)などの防火組織が設置されています。

一方、江戸では1657年(明歴3年)1月18日 、本郷丸山の本妙寺より出火し、死者は10万7千人余り、「振袖火事」とも呼ばれ、世界3大大火の一つに数えられる「明暦の大火」が発生しました。
この大火に際しても、南部重直公は、自ら率して先士卒を連れ出しその防留に努めました。「その雄姿は他藩の諸侯驚くばかりであって、将軍はこの主従一体の働きを大いにお褒めになった」と南部火消年表に記されています。
またこの大火が江戸の町火消誕生の契機ともなった。と同時に、江戸で南部藩火消の名声が高まったそうです。
 
そして盛岡では1665年(寛文5年)、城下の各町みずからが火防を主とする番所を置くようになり、町民による町火消しの歴史が芽生えます。
江戸火消との深い繋がりから、同じ様に「組」の歴史も始まり纏(まとい)や半纏といった火消の文化も発展していきました。

現在の盛岡市消防団
消防団員は、他に仕事を持ちながら団員の活動をしている方がほとんどです。
その活動はボランティア精神で成り立っています。
最近は、女性団員が増えている反面、男性団員が少なくなっています。そのため、盛岡市内の消防団では、新人の市役所職員が各団体に入団して活動をしています。ですがその後も団員として活動を続けていく人は少なく、消防団全体の悩みとなっています。

まとめ

消防団の皆様の活動の中には、各地域の神社などの行事参加などがあります。大きなところは、今年もコロナで中止になってしまった「裸参り」そして、
五穀豊穣や健康に感謝するお祭り「盛岡八幡宮例大祭」です。

毎年小正月の頃行われる「裸参り」(コロナ前)


コロナ以前行われた盛岡八幡宮例大祭の夜参りの様子

地域を盛り上げている消防団の雄姿に日頃の感謝の気持ちを込めて出初式のパレートに拍手を送りました。


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