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長崎の平和祈念式典にアメリカやイギリス、フランスが出席拒否したことについて

長崎の平和祈念式典でイスラエルを招待しなかったことについて賛否とネットでの炎上騒ぎが起こっている。

FBで「戦争している国だからこそ参加して原爆の悲劇や戦争の愚かさを知ってもらうべきではないか。どの国も招待すべき」という意見を読んで「ふむふむ、確かに」と賛同したが、その後ニュースを読んで「ガザを攻撃し多くの市民の犠牲を厭わないイスラエルを招待すべきではない」、という考えにもすごく共鳴する。

しかしながら長崎市の「イスラエルを招待することで想定されるいざこざを避けるため行った」という言い訳(?)には疑問符。招待すべき、招待すべきではない、という人達が「戦争の悲惨さ」「原爆を二度と使ってはならない」ということを人類が確認するために広島と長崎の式典が行われているという共通認識の上に立っているのに対して、長崎市の意見は平和祈念式典の趣旨を自ら曖昧にする、主張のない日和見論じゃないだろうか。

その中でジャーナリストの志葉玲氏が、我々が心底怒らなくてはいけないのは「イギリス、フランス等は、日本における原爆被害を本当に軽く見ていることだ」「原爆で無差別に殺された日本の市民を追悼することよりもイスラエルの擁護を優先したことだ」と書いていたことに全面的に賛同する。

イスラエルを招待する、しない、を長崎市は「波風を立てない理由」を探るのではなく、しっかり、「戦争当事者にも悲劇を学び反省して欲しいから招待する」、「戦争当事者は式典に相応しくなく、招かないことで長崎市としてのガザ攻撃への異議を唱えたいから招待しない」のどちらかのスタンスをしっかり表明してほしい。

その上で長崎の式典出席を拒否(辞退?)したG7各国は、今一度、広島、長崎の式典がどんな意味を持つものなのか認識してほしい。これはイスラエルを招待するしないに関わらず、世界中のすべての人々、特に政治を行う人々が「多くの命を犠牲にして行う戦争の愚かさ」と「核兵器の不条理さ、非人道性」を再認識し後世に伝え、そして戦争と核兵器をなくしていくことを皆で確認する場、なんだと。

広島、長崎で世界の非核化と原爆の記憶の継承のために今も戦っている人達が大勢いる。今回のG7各国の式典出席拒否は、その戦いや訴えが全然、アメリカやイギリス、フランスなどに届いていないことを示したものだ。本当に残念だけど、これからは、じゃあ、どうすれば届くのか、を考えながら非核化を目指して行くしかない。でも、考えないといけないのは広島・長崎市民、日本国民、だけじゃない。世界中の人達が戦争や核の脅威をなくしていくことを考え、その戦いに参加していかないと。そして日本人はウクライナやガザのこと(世界にはもっといっぱいあるが)も本気で考えないといけない、ということ。

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