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ゆるやかに少しずつ

声のような音
音のような声

声でもあり音でもある
音でもあり声でもある

世界には境界線はない
ゆるやかに行き交う


ーーー


10代の頃は、
ひとつひとつすっきりしないと、前に進めなかった。
参考書でも、分からない言葉は調べ、納得した上で次に進む。
モヤモヤを持っている状態が許せなかった。

最近思うのだ。
全てを分からなくてもよいと。

たとえば、考えても分からないものは、分からないまま朗読する。
分からない、という迷いや戸惑いを隠さずに、声や音にのせる。

きいて解決するものは、教えてもらえばいい。
でも、ぼんやりふんわりとさせておくのも悪くないのではないか、と思う。

靄(もや)はだんだんと薄くなるかもしれないし、
反対に、より濃くなることもあるだろう。
どちらでもいい。

待つこと、にエネルギーを使う。
ゆるやかに持続するものに。

その都度立ち止まり、解決するまで、考え調べ尽くしていては、
消耗して、動けなくなる。


それはおそらく、私の持つエネルギー全体が、減ってきたのだろう。


徹夜できなくなった。
疲れやすくなった。
無理がききにくくなった。
胃腸も弱くなった。

目に見えないほどゆっくりで、かつ確実な変化。
30代に入ってから、強く感じるようになった。
そしてそのとき、
これらの変化は、私を助けてくれていることに気が付いた。

過食の大きさは20歳前後をピークに、10年以上かけて少しずつ小さくなった。

かつては苦労なくできた、
食べ込んだ翌日(と翌々日)は絶食、
は今はもうできない。
よい意味で、ほどほどに近づいてきた。

過食は今もつらいのだけれど、威力といったらいいだろうか、
全てを一瞬で破壊するような力は、もう持っていない。


体力や気力の変化を、
自然なものとして受け入れたい。

弱くなることで柔らかくなった。
受け入れるようになった
…まわりの声、まわりの存在、自分の感情。
そうすることが自然で、そう在ることが心地よくなった。

「それもありじゃない?」
「どちらもすてきだよ?」
人と接していても、そう感じることが格段に増えた。
気にならなくなった。
悲しくなることも減った。

自分とは違う表現、考えを、そのまま受け止めるようになった気がする。
合わせよう、寄せようとしなくていい。相手にも求めない。
それでも同じ時間を、楽しく過ごせることを知った。


命のスピードが、ゆっくりになったのだ。
ゆっくりでいることに、以前より罪悪感を感じない。
ゆとりが生まれた。

楽になる自分に、
「いいんだよ」
と言えるようになった。
思い返せば、10代20代は常に
“楽すること=悪”
のように生きてきたから。


摂食障害は、きっかけを境に変わる人もいるときくが、
きっと私は違う。

ずっと私の中に残りながら、
ゆるやかに少しずつ、
おとなしくなっていくのだと思う。


ーーー


私は、虫の“声”と表現する感覚が好きだ。
虫たちの存在をいとおしむ眼差しが、この一字からにじみ出ている。


世界には正解はない。
どのように感じて、信じて、表すか。
私は、どう生きたいか、どう在りたいか。


命に素直に、正直にいたい。

2024.6.14

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