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わからない、とても

分かりあう、とか、分かり合えないことから、とか、分かり合えないことへと、とか、いろいろ議論はあるようだけれども、「わかる」を前提とすること自体が、わたしには、どうもよくわからないでいる。(このなかだと、分かり合えないことへと、の話が、私はまだわかる)

このところ、いろんな国の出身の人とおしゃべりする機会がそれなりにあって、同じとかより、違うということの方が面白かったりする、ああ、鴨の肉を食べるのかとか、サウナは混浴なのか、とか、卵は生で食べないのかとか(わたしはそれでお腹を壊した)、とか。
そういう違い、わたしたちは、そもそも違うのだということを尊重すること(できたら面白がれたらいい)、をやり続けることしかない。そもそも私たちは、違うということからしかコミュニケーションできない、他者であるとは自己でないということで、自己であるとは他者でないということなのだから、そもそもコミュニケーションの少し手前に(もしくは同時に)、わたしたちの違いがある、自信満々な「同じ」という全体に逃げない、
(コミュニケーションとかいうのも最近うさん臭い、言葉以外も含むおしゃべりのことです、)


絵のことはよく分からないけれど、セザンヌは自分のなかに他者を、自分の意識にのぼってこない自分じゃない部分を描こうとしていたようにも見えてくる、それが芸術だ、とセザンヌは言うだろう、セザンヌのこととか全然分からないのでこれはでたらめですが、

自分と他人が溶け合う、やさしい全体、に、わたしは気をつけたい、エヴァンゲリオンは全部見てないのでこれもわからないけども、人類は補完されなくてよかったのだとおもう、わたしたちは他人だからこそ触れ合うことができる、わたしたちは分かり合えないからこそおしゃべりすることができる

触れ合うことを、分かり合うための手段ではなく、目的としてかんがえたい。分かり合えないことは、触れ合うための出発点だ、もし一つになってしまったら、わたしたちは永久に触れ合うことができなくなってしまうだろう


分かり合えぬまま、たのしく死んでいきたい




なんか、音楽みたいなの、つくってます、さわってます

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