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私のねんどをこねる

わけのわからないものを、わけのわからないまま、手に書かせるということを、忘れないようにしなきゃだよなあ、とたびたび思う。

noteやら批評やら書いていると、どこかの本や新聞で読んだことや、意志やらイデオロギーなどなどが、いつも、わたしの手を誘惑してくる。

「この現象はウィトゲンシュタインのこの概念が使えて、この人の言っていることはフッサールとここが似ていて、云々!」

ついつい、自分を甘やかして、そうした誘惑に飛びついてしまうと、(わたしの場合は)たいてい、ひどい。どこかで見聞きしたような言葉が並んでいる。一から、書き直しである。


ぐねぐねとした、私たちの手を動かしてしまうような、生きものっぽさ(ムカデだったり、カナブンだったりするだろう)。
そういう、わたしたちに棲まうナマの生きものたち、今もきっと、もぞもぞと動き続けている。



海辺の喫茶店、ぼろぼろで読めない


テコみたいに使えてしまう言葉というのは、きっと、たくさんあって、そういう言葉に、わたしは本当は気をつけないといけないのだよな。

それは、「マネジメント」だったり、「本当の内面」だったり、はたまた、病名とされている言葉だったり。
そうした、テコになった言葉たちは、やさしかったり、おっかなかったり、いろいろな顔をして、あちこちに現れてくる。電車の中吊り広告も、SNSも、今や、テコテコのお祭りである。(テコの複数形を、テコテコと呼ぶことにする)

そういうテコテコたちの誘惑につい負けてしまうとき、わたしたちの中のモゾモゾたちは、テコの支点とされてしまうだろう。



詩性。

そのときどきで、「クセ」だったり「傷」だったりの顔で、言葉たちの表だったり裏だったりに現れてくる。
(わたしは、「クセ」として、いまだにきちんと椅子に大人しく座っているのが苦手である。最近になって、コロナのあれなのか、お店の人とかに怒られるようになったので、ちょっとびっくりしている、すみません)

そういう、色々な顔の詩性たちを、ついつい、「本当の内面」のような言葉で、ちょっと名指してみたくなったりするけれど、たいてい、詩性はムカデみたいに、つるりと滑り逃げていくだけだろう。また誘惑に気をつけないといけない。

その身に宿してしまった、詩だったり、傷だったりを名指して、詩から自由になろうとしてみたところで、詩のほうへと自由にはなることは、できない。

テコテコとして役に立つ言葉が指しているモノが、あたかも、言葉が指すよりも前からあったかのような顔をして現れてくるから、ついつい、わたしたちは内面とか言いたくなってしまうけれど、そもそも虫かごは壊れている。

モジャ、モモモジャ、モジャ、モジャモジャモ、モモモ、モモ、モモ、バタバタ、モモ、バタ、モ、モジャモ、モモモモ、モジャモパタ、モ、ジャモパタモ、モジャモジャ

ムカデ(1911)「ムカデの絶望の詩」より抜粋



わたしは、わたしの詩性を、ねんどのように、こねてみることから始めてみたい。

ねんどをこねているとき、手が形を作っているのであって、わたしたちの頭のなかに、もとから形があったわけじゃ、きっと、ないからだ。

わたしたちにとって、「傷」として現れてくる、あれやこれやも、とりあえず今、あとからみて、その形になっているだけのときも、あるような気が、わたしはしている。
だから、ぐねぐねと捏ねていれば、やがて、違う形に見えてくるかもしれないし、わたしは、こね続けてみたい。モジャ、

ねんどのように、生活のいろいろ、書いていきます。



キメ顔のパンダ。キマってる。



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