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演劇のハラスメントと権力について

このところ、演劇界隈で、ハラスメントについての話題をよく聞くようになった。
これは(当然だけれども)、最近になってハラスメントをするひどいヤツが増えてきたということではなくて、これまで平然と行なわれてきたハラスメントが、顕在化してきた、ということだ。


ハラスメントについて語られることになった発端は、「地点」という劇団で、辞めた(あるいは、辞めさせられた)俳優が、演出家のハラスメントを糾弾したことにある。

わたしは、地点という劇団でどういうことが行なわれていたのかは知らないし、事実関係が定かではない現時点で地点という劇団を糾弾するのは、ハラスメント同様に倫理的でないと思っているから、この記事では地点という劇団を、特にハラスメントについて批判するつもりは、全くない。

しかしながら、この「経過のご報告」声明に対しては、いくつか言いたいことがある。

多様な職能の集まる演劇の現場で、演出家は作品の責任者としてキャスティングを含め様々な判断をします。しかしこの責任は権力ではないことを私たちは肝に命じてきました。元所属俳優の在籍中、また退団時の面談を通して、このマナーが破られることはなかったという認識でいます。私たちは引き続き交渉の場で、一つ一つを明らかにしていきたいと考えています。(太字は筆者強調)

以上が、声明の最後の段落である。

まず、「権力」という言葉について、考えてみたい。

M.ウェーバーという社会学者の定義に従うなら、権力とは、「社会関係の中で抵抗に逆らって自己の意志を強要する可能性」である。(もちろん、必ずしもM.ウェーバーの定義が正しいとは限らないけれど、わたしは、こういう意味で「権力」という語は一般的に使われていると思う)

少し難しいので、具体的に説明しよう。
たとえば、先生が生徒に「廊下に立っていなさい!」というのは権力の行使である。二人が先生と生徒という関係にあるならば(特定の社会関係の中にあるならば)、生徒がいくら廊下に立ちたくなくても(抵抗があっても)、先生は生徒を廊下に立たせることができる(自己の意思を強要することができる)。
ここで重要になってくるのが、二人が社会関係のなかにある、ということである。もし、学校の外で、先生が生徒に「廊下に立っていなさい!」と言ったとしても、学校という社会で成り立っている関係性の外にいるので、そこでの先生の命令は、失敗に終わる。学校の外では、少なくとも先生/生徒という権力関係は働かないからである。(もちろん、他のさまざまな事情によって、学校の外で命令することもありうるとは思うけれど・・・。)
二人が何を考えているのかではなくて、先生/生徒という役割を持ってそこにいる、ということが、権力について考える上で重要である。


これは、演劇の稽古場でも同じことが言える。俳優は、演出家の命令に、基本的には従わなければならない。
もちろん、俳優は、演出家のオーダーに答えたくない場合、演出家と相談することがあるだろう。しかし、答えたくない場合に、無視するのではなく、相談しなければならないということは、むしろ演出家に権力があるということを示している。

これは特に難しいことを言っているのではない。
たとえば、俳優が「私はこの演技は嫌いだからできません」と言ったとしても、演出家が、「やってください」と言ってしまえば、俳優は無視できない(相談等しなければならない)、ということだ。
もちろん、俳優は演出家に相談して、演技プランを変えようと試みることはできる。だけれど、相談が必要だということ自体が、二人の間の権力関係を象徴している。
逆に、演出家が「この演技をやってください」と俳優に伝えるために、俳優にそのつど相談しないことを思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。演出家が、俳優にそのつど、「こういうふうな演技って、どうかな・・・?」「いいんじゃないすか」「あ、じゃあ、そういう演技でお願いします」と相談しているのだとしたら、もはやそれは演出家ではないだろう。

重要なのは、稽古場という社会において、演出家/俳優という社会的関係におかれる以上、顕在的・潜在的であるかどうかを問わず、必ずそこには権力関係が生じるということである。(俳優が何をするのかについて、決定権の非対称性が生じるということである)
稽古場での権力関係が生じないような「演出家/俳優」という関係性は、もはや、普通の意味での「演出家/俳優」という関係性ではない、と思う。
(「普通」というのは、言葉の理解可能性を成り立たせるような社会規範・論理文法について述べている。私がそうしたいわけではないし、そうするべきと思っているわけでもない。そのような関係にない演出家/俳優を説明するのに特別な説明が一般的に必要だということを、ここでの普通は指している。)

だから、地点のステートメントにあるような、「権力ではない」という主張は、私はあまり納得できない。それは、私にとっては、演出家が演出をしていなかったということに、等しいからだ。
もちろん、ここまで書いてきた議論とは、異なる意味で「権力」という言葉を使っているのだとは思う。しかし、言葉と社会を扱う芸術を牽引している劇団が、ここまで「権力」という語に無頓着・無自覚であるということに対して、わたしは若い演劇人として落胆している。
この言葉と権力への無頓着さ・無自覚さは、あらゆるハラスメントの入り口にもつながっているように、私は思う。
(だからといって、地点でハラスメントがあったかどうかは、私には分からない。なかった可能性も十分ありうる。しかし、この声明で言われていることに私は納得できない。)

権力は、本人の意図とは無関係に生じうる。

演出家と俳優という社会的関係を結んだ時点で、演出家の意志がどうあれ、そこには権力関係が不可避に内在している。
これは、仮に、一切の権力を行使しなかったとしても、である。(核兵器が抑止力として働いていることを思い出してみて欲しい。権力は、発動如何が重要なのではなくて、発動することが可能であるということが、決定的に重要なのである)

これは、遵守することが本人の意志に全面的に委ねられる(声明にあるような)マナーの問題ではなくて、演出家/俳優をやる上で、不可避的に生まれる社会関係の問題である。
マナーをいくら遵守しようと心がけたところで、演出家は、俳優に対して指示を出すことができる。このことは、演出家が演出家である限り、権力を持つということである。そして、演出家をやるということは、この権力関係を引き受けるということにほかならない。

演出家は、演出家である限り、必ず権力を持ってしまう。

そうであるとしたら、ハラスメントを避けるために考えなければならないのは、
権力を前提とした上で、どうしたら演出家の権力が不当に行使されないような仕組みを作れるのか、ということである。

権力関係そのものは不可避的に生じるもので、それ自体が悪いわけではない。そうではなくて、回避するべきなのは、その権力関係が不当に濫用されるということ、このことである。

たとえば、上司が部下に、「この書類18:00までにまとめておいて」と言うのは、権力の行使であるが、全く問題はないだろう。
しかし、上司が部下に、「今晩うちのご飯作っておいて」と言うのは、不当な権力の行使である。部下がそのようなことをする義理はない。

稽古場でもそうである。
演出家が「このシーンは、上手から出てください」と言うのは、権力の行使であるが、問題はない。
しかし、「二度と演劇やらないでください」と言うのは、権力の不当な行使である(もし依頼の形式でなされていても、恫喝に他ならないとわたしは思う)。演出家はキャスティング・演技に関する指示の権利を持っているが、演劇をやめさせる権利は一般的に持っていないからである。

また、よくありがちなのが、演技に関する指示と区別し難いような状況において、プライベートに関する不当な命令を行なうということがあると思う。たとえば、「上手から出てください」と並列して、「仕事やめたほうがいいんじゃない?」や「結婚したほうがいいんじゃない?」と発言することなど。これは、演出の体裁を取ったハラスメントにほかならない。当然であるが、演出家は俳優の人生に指示出しする権利は持っていない。
(少し話が逸れるけれども、見た目についてのダメ出しも、同様にハラスメントだと思う。本人の自由な意志に見た目は従わないからである。それはルッキズム的差別だ。)
(さらにもう一つ話が逸れるけれども、ほとんどのハラスメントは、命令や指示の形ではなくて、提案や依頼といった言葉の形式でなされていると思う。たとえば、「〜すれば?」という形式のように。だからこそ、その場でハラスメントを指摘することは難しい。)

重要なのは、権力が生じるのは不可避的であって、避けるべきなのはその不当な濫用だ、ということである。


ここで、少し話を変えて、なぜ演劇界隈においては、それなりに名前の知られた劇団であってもパワハラが横行しているのかについて考えてみたい。
それは、演出家には悪いやつが多いというわけでも、芸術家は独創的な感性を持つから時に人を傷つけざるをえないというわけでも、当然なくて、おそらく業界の閉鎖的な構造が原因としてあるように思う。

特にわたしが問題だと思っているのが、俳優の雇用流動性が低いがゆえに、演出家同士が競争に晒される機会が、構造的に少ないということである。
つまり、俳優は演出家に選ばれる側であって、俳優が演出家を選ぶ機会が、システムとして保証されていない、ということである。
(もちろん、そうではない劇団もあると思う。しかし、構造として、演出家同士が俳優に比較される機会があまりない、ということを言っている。)

このことは、結果として、俳優の立場を弱めていると私は思う。
つまり、俳優が、実力に見合った演出家と出会う機会が体系的に保証されていないがゆえに、俳優に対して横暴に振る舞ったとしても、演出家は自身の立場を保持し続けることができる、ということである。
(体系的な機会の保証というのが重要である。実際に出会うかどうかではなくて、出会うことが可能である機会が体系的に保証されているかどうかが、俳優が劇団を辞められるかどうかを左右する。)

雇用流動性の高い場合と比較すると分かりやすいかもしれない。
たとえば、すき家ではバイトに暴力を振るってもよいというマニュアルが仮にあったとしたら(私の愛するすき家の名誉のために言っておくが、そういう事実はない)、一時的に店長はアルバイトに言うことを聞かせることができるかもしれない。しかし、1ヶ月後には、アルバイトは全員、隣の松屋か吉野家に、バイトを変えているだろう。
アルバイトサイトを探せば、すぐに隣の牛丼家の面接を受け、バイトを変えることができるからである。そういう意味で、機会が体系的に保証されている。

他方で、演劇は、そうではない。
劇団を辞めてしまえば、あたらしい良い演出家と出会うにはそれなりに時間がかかるだろうし、実力がなければ、出会うことも難しいだろう。
仮に、事実として出会う可能性が高かったとしても、それが体系的に保証されてはいないために、辞めるのは相当な勇気が必要である。

このことは、演出家の不当な権力の行使を蔓延らせている原因のひとつであるように、私は感じている。
(もちろん、事態は、より複雑であろうけれども。)


じゃあ、どうしたらいいのか。

わたしは、その解決案のひとつとして、多くの劇団が別々に開いているWS・オーディションを、一括で開催すれば良いのではないかと思っている。
俳優は、演出家を横に並べて見ることができるので、演出家をある意味で選ぶことができるし、逆に、演出家も、普段出会えなかったような実力のある俳優に声をかけることができるだろう。
(もちろん、出演してもらうためには演出家の実力が必要なのだけれども・・・。)
企業の、合同説明会のようなものである。

さらに、演出家同士が、他の演出家が用いている方法論を吸収しあうことができるし、自身の方法論や集団論を客観視することにもつながるだろう。

ぺぺぺの会は、劇場などを持っていないから、そういうことをすぐにはできないのだけれども、似たようなことは、たぶん可能なはずで、そういう施策を、今後は制作として打っていきたいと思っている次第であります。

何か、業界を良くするためのアイデアなどありましたら、いつでもご連絡ください。
minatosuzukiplaywright@gmail.com

いつの日か、ハラスメントのない業界になることを願ってやみません・・・。


(念のための補足。わたしは演出家を敵視しているわけではないし、したこともないし、私もときどき演出をすることがある。ここで非難しているのは、不当な権力の濫用という行為である。)



後日追記。
ハラスメントについて考えるときに、演劇とハラスメントについて書かれたnoteとして、

が参考になると思います。

また、日本劇作家協会も、
www.jpwa.org/main/harassment-outline
セクシャルハラスメントに対する基本要綱を出しています。


(2月14日追記。青年団主宰の平田オリザさんも声明を出されたようです。)


わたしがこのnoteに書いたことは、唯一の正解というわけでは決してないし、大切なのは、演劇に携わる全員で、ひとつひとつ考えていくことだと思っています。

ハラスメントの被害者が一人でも減ることを、心から願っています。

読んでくださってありがとうございます。 みなさまのコメントやサポート、大変励みになっております。