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『普通』とはこんなにも難しい

普通に生きる、とはこんなにも難しい。
集団生活を難なく過ごし、学校を卒業し、一般就労する。
友人を作り、恋人を作り、結婚する。

こんなに難しいことはない。

僕にとって、普通とはそういうものだったし、今もそういうものだ。


そんな感覚を上手く分析してまとめることで、少しでも生きづらさを感じる誰かの手助けになればと思い立ち、noteを書き始めました。

このnoteが、「保育や教育の現場で働く人」「育児に悩む保護者」「自身の特性の理解に悩む人」「これから小児の領域に飛び込もうと思っている人」へ届けばと思います。


小児領域専門の作業療法士として日々、子ども達と接し、学んだ知識を含めてお話していきます。




僕は幼少期から毎日のように両親から怒られていた。
「どうしてこんなに訳が分からないのお前は!」

そんなこと言われても、僕にもどうして僕がこうなのか説明はできなかったし、
僕は最初から僕だったから、どこがおかしいかも分からなかった。

ただ一生懸命生きてるのに、どうしても周囲の人たちと合わず、ちぐはぐになってしまう。

幼稚園も、小学校も、中学校も、高校も。
集団生活は嫌いだった。上手くいった試しがなかった。

学校の授業はじっと椅子に座って静かにしないといけない、先生の話に耳を傾け続けなければいけない。集中し続けないといけない。

でも、窓の外では飛行機の音や鳥の声や風の音、教室の扇風機の音、クラスメイトがノートに板書を書き写す鉛筆の音や先生の黒板にチョークでカッカッと文字を書く音。消しゴムでギュッギュとノートを擦る音。

窓から差し込む眩しい太陽の光。下敷きに反射して眩しい。それに、教室の窓から見える車がカッコよかったり、色んな形の手を伸ばせば届きそうな雲、ブーンと飛ぶ虫。

隣に座る子の匂い、雑巾の匂い、排気ガスの匂い、給食の匂い、汗の匂い。


椅子から伝わるひんやりした無機質な温度。自分の体温で温もった机。時折誰かが体を動かして軋む椅子の音と、その振動が床を通って伝わってくる。体の奥底から湧き出る“走り出したい!”、“立ち上がりたい!”、“大声を出したい!”という欲求。


こんなにも気になることが山ほどあるのに、こんなに周囲はうるさくて、目がチカチカして、匂いがして、いろんな感覚があって、今にも動き出したいのに。

それでもじっとしていないといけない。授業中で、“そうしないといけない”から。

我慢なんてできる訳もなく、僕は話を聞き続けることもできなかったし、教室から飛び出していたし、幼稚園は脱走して塀が高くなったし、どうして毎度のように先生に怒られているのかも分からなかったし、何で他の子には普通にできることが僕にはできないかが分からなかった。

みんなの話している普通ってこんなにも難しいし、どうして普通がみんなできるの?

授業中は机や椅子をガタガタ揺らしていたいし、板書はどこを写しているのか分からなくなるし、目の前を蝶々が飛んだら追いかけたいし、落書きはしたいし、後ろ向いて話したいし、窓の外から見える鉄棒で逆上がりがしたいし、毎日忘れ物をして忘れ物キングになるのが、僕にとっての普通なのに。


授業だけじゃない。

運動会なんて大嫌いだった。
こんなに自分の体の近くに誰かがいる。息が詰まって仕方がない。呼吸が浅くなる。周りがうるさい。自分の真上の空しか人が見えない空間がない。

合唱コンクールや演劇の出し物。
並ばなきゃいけないし、自分の番が来るまで集中しながら待っていなきゃいけない。決まったセリフや歌詞を決まった姿勢で決まったタイミングで発声しないといけない。


高校生になった時、父親の仕事の都合で転勤が決まり、僕は東京から熊本へ引っ越すことになる。
人生のなかでもっとも環境が大きく変化した瞬間だった。

そのままなし崩しに体調を崩し、不登校になり、自殺未遂をして引きこもりになった。

僕はその時、双極性障害を患い、通院をはじめた。
医者から言われた「どんなに気をつけても、どんなに忘れ物がないかチェックしていても、この先の一生必ず何かを忘れ続けるでしょう。」という言葉は今でも覚えている。


それでも苦手なものだけじゃない。こんな僕にも、得意なことはあった。

集中して受けた首都圏模試では偏差値70の時もあったし、数学の順位が東京都で上から数えれられる時もあった。
図工での制作や工作は、好きなものがどこまでも永遠に作れる気がして楽しかった。粘土で作ったドラゴンは学校の玄関に飾られて、描いた絵は東京都のカレンダーに選ばれた。

集中できる時は、いつも決まって周囲は真っ白になって何も見えない、何も聞こえない、邪魔するものは何もなくなった。イヤホンで音量96%がちょうど良い音量で、それすら集中すると聞こえなくなっていく。

それが僕にとっての普通だった。


だから、診断名がついたとき「あ、僕が悪いせいじゃなくて、僕の脳が違うせいだったんだ、なーんだやっぱり僕と周りの普通が違ったんだー。」と腑に落ちてとても安心した。

普通じゃないことが科学的に証明されて、もう怒られなくて済む!助かった!と思った瞬間だった。


そこでようやく自分の得手不得手を理解したり、特性について学んだり、対策をたてて生きづらさを解消しようと試み始めた。それが19歳の時。

そこから作業療法士になり、現在毎日子どもたちと遊びながら、発達を促す手助けをさせてもらう周囲の大人側の役割を担う事になる。到底想像もできなかった役割だ。

学校で先生に叱られて、家で親に怒られて、「僕なんて居なくなればいい。」と本気で話す小学生低学年が実在する。

十年前後しか生きていない彼らに、少しでも生きやすくなって欲しい。周囲の人間の理解が得られて、良い環境に恵まれて、人生に絶望せず、希望を持って生きて欲しい。


自分のことが分かると、周囲へ自己表現して伝えられるようになる。

周囲へ伝えられるようになり、理解が得られると、環境が変わる。

環境が変わると、我々の普通は周囲の普通に少しずつ近付き、そうやってようやく僕は生きやすくなっていった。

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