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異常成人男性こそインスタ(中)暗い気持ちになる写真って、あるのでしょうか

もちろん「露出不足」の話じゃないです

 こんなタイトル付けたら「いやあるよ!当たり前だろ!」と総ツッコミ受けそうだけれども。よ~~~~く考えてみよう。

 純粋に誰もが「暗い気持ちになる写真」って、あるのだろうか?たいてい、撮影した被写体が悲しかったり、悲惨な出来事というだけじゃないだろうか?そしてそれを、露出や影の出し方などのテクニックで、あるいはそれを撮影したときのキャプションやエピソードによって、暗い気持ちにさせているだけではないか?

 と、僕は常々考えているのだ。特にInstagramをずっと見ていて「楽しいなー」と思いながら。確かにInstagramの優れたサジェストAIが、ユーザーを暗い気持ちにさせない、ずっと見ていても飽きないような依存性を生み出している。それが大半の原因だろうとは思う。しかし、それだけが全てだろうか。写真、あるいは絵を含めたイメージメディア全体に、その作品自体は何の感情も持ち得ない、という特徴があるのかな、とそれとなく感じてもいる今日このごろである。
 いろいろ経緯を話していても仕方がないので、具体的な写真(集)の例を出してちょっと考えてみようと思う。

逆に言えば、この花の写真もなんか暗く見えませんか?

荒木経惟「冬の旅」:まず「きれいだな」と感じる死

 写真における「くらさ・かなしさ」という話になると、まず思い付いたのが「死」という被写体だった。死を取り扱った写真は、ゴマンとある。戦場写真、事件現場や事故現場の写真、身近な人の死など諸々。でも一番印象深い死を取り扱った写真といえば、荒木経惟の「冬の旅」だったわけだ。

 写真集「冬の旅」は、妻の荒木陽子さんが子宮肉腫で亡くなる1990年1月までを撮り続けた写真を収めている。僕は確か5年くらい前に初めて見たと思う。このクライマックスは、陽子さんが事切れる瞬間から、葬儀までを、遺体の写真までを含めて収めた一連の写真なのだが、最初に見た時、衝撃を受けたこと計り知れない。ただ、その内容は「あ、悲しいな」ではなかった気がする。
 どっちかというと「あ、怖いくらいきれいだな」というのが最初の感想だった。次に「大切な人が亡くなったら悲しくて取り乱してそれどころじゃなかろうに、なんでそれでもこの人は写真を撮るのだろう」という原論的なものだった。
「あ、悲しいな」に至ったのは、荒木経惟さんと陽子さんの「東京日和」を読んでから、改めて見たときであった。

 知識に乏しかったがゆえに写真の「悲しい」という感想に先立って「きれいだな」という感想が出たのだろうか?自分は違うと思う。難しく言うと、制作の背景は「うちあけ話」にすぎないという意味でロラン・バルトの「作者の死」とかも引用すべきなのだろうが。

 自分はもっと単純に。「感想は人それぞれ」ってことなんだと思う。

閑話休題① 白黒写真は暗い気持ちになるのか?

 冒頭で否定したが、そうは言っても暗い気持ちにさせられる被写体を撮った写真はやはり暗く演出されていると思う。実は先ほど例に出した「冬の旅」の写真でも「あえて稚拙なテクニックを使って」撮影したそうな。そして、暗く演出しやすいのはもちろん一番暗い色、黒と一番明るい色、白で構成された白黒写真だと思う。
 でも、結局は被写体次第。例えばこれを見て欲しい。

今になってみてみたらバージョン違いがいくつも保存してあったんですよ

 このストリートスナップは去年撮ったものなんだけれど、アメ横にある立ち飲み屋の店頭で、テーブルを囲んで三人のサラリーマンと思われる人たちが話している。どういう話をしているかは聞けなかったし覚えてなかったけれど、少なくとも口喧嘩をしているように見える人はそんなにいないんじゃないかな、と。
 この白黒写真については後から明るくするとか、そういう演出はしてない。ただホワイトバランスを調節する余裕がなく、露出オーバーになってしまっただけだ。

 じゃあ、逆に露出アンダーにしてみたら?

店名はどうしても思い出せません

 それなりに雰囲気は変わったけれど、それでも深刻そうな場面を写した暗い気持ちになる写真には見えないよね。
「あ、こういう内装の店なのかな」
 とは思われそうだけれど。

藤原新也「メメント・モリ」ほか:みんなカッコいいんだよな

 実は藤原新也という写真家は、これまでしっかり観たことがなかった。一度大学の時、押井守の作品に引用されていたということから「東京漂流」を手に取ってみたのだが、少し読んでそれっきりになってしまった。なんだこれ。字ばっかりじゃん。言ってることもよくわからんし。と。

 ちゃんと観て、それでハマったきっかけは今年の7月に東京都写真美術館で開催された「メメント・モリ展」でのことだった。その日「社会的に重要な或る死」の翌日であったけれど、そんなに混んでいたわけではなかった(いや、むしろだからこそみんな避けてたのかな)。僕も、それ目当てというわけでもなくて、強いて言えば他の展覧会のついでであった。で、ハマった。

 10/16放送の「日曜美術館」にも藤原さんとその作品が出てきて、久々に見ごたえのある日美だったな、って満足できた。
 この時の感想はあらためてじっくり書きたいんだけど、放送の中で面白いエピソードに触れてた。

 荒木経惟とは違って今度は父親のことなんだけれど、藤原新也も「肉親の死」を、しかも今際の時をフィルムに残している。しかも撮る瞬間に「はい、チーズ」って言ったんだそうな。すごいよなあ。自分だったら絶対言えないよ、てか今から死ぬ父親に言うことかよ。で、写真見るとちゃんとその瞬間笑ってて、それから事切れたんだそうだ。いい被写体になる事に、自分の最期の力を使える。

 それってなんてカッコいい、いや「ダンディな」死に方だよ。そんなわけで悲しいとか、暗い気持ちになるとかは、微塵も感じなかった。

 藤原新也の撮る死はカッコいい。ただ、言えるのは今際の時に撮られるためにカッコつけてるんじゃないんだよな、っていうこと。覚悟を持って生きて、持てる力を正しい方向に、本当にやりたくてかつすべきでもある事に最期の瞬間まで使って、その結果があのカッコ良さなんだろうなぁ。

 ネイティブアメリカンの名言とかはウサン臭いので敢えて言及しない。でも、こんな感じで死にたいな、ってだけよ。

閑話休題② 「写真と本文は関係ありません」?

 それにしても、子供の頃から分からないことが一つある。
 マセた小学生で活字好きだったので、あらかた家の本を読んでしまうと、今度は祖母がパーキンソン病の震える手で読んだ後の新聞を眺めていた。

 その中に、たいてい枠で囲んである連載があった。内容はやたら難しくて暗いものばかり(社会問題のルポとかが多かった気がする)で、たいてい必ず添え物のように、必ずこういう解説の付いた、これまたわけのわからない写真とか絵が載ってたな、って思い出す。

「写真と本文は関係ありません」

 なんだったんだろーな、あれ。読者を暗い気持ちにしたり、深刻さを伝えたかったりしたのかな。
 じゃあこれ万能っぽいな。試してみようか。

 ちょっと前まで「それはそうと」「それはそれとして」という言い方を多用する人も、その言い回し自体も大嫌いで、いちいち腹を立てていた。そういう言い方をする人は、いい事をいい、悪い事を悪いとも言えない、細いシーチキンで満足するような妥協主義的な奴だと思っていたのだ。
 だがこれこそ、白黒思考、ゼロか100かの極端な考え方を避けて、自分がより多くの事を学び多くのチャンスを得られる、便利な思考法じゃないだろうか。

書きかけ①
写真と本文は関係ありません

 うーん、じゃあこれはどうだ。

 自分は時々、特に慌てるとごちゃ混ぜの方言、名付けるとしたら「ハナモゲラ方言」とでも言うべき何かが出て来ることがある。これは特に「〜で」という言葉で多く出るらしく、例えば「これで」は「こんげ」だったり「こげん」になる。「それで」は「そんげ」はもちろん「そげん」を経て、なぜかそこで濁点が消えて「そけん」になったりする。

書きかけ②
写真と本文は関係ありません

 どうです?写真から受ける雰囲気とかイメージって、所詮はこの程度って事でしょう?

まとめ

 とっ散らかった、中途半端にウケ狙いの、まとまりのない話になってしまったが、写真だけで純粋に暗い気持ちになるってことはなかなか難しい、ということだね。

 最後にまた話をInstagramに戻す。
 確かにインスタの面白さ(というか依存性?)ってSNSとしてのしくみがよく作られてる、サジェストAIが高性能、ユーザーが何を求めているかの把握が優れていると言うこともあるのかもしれない。

 だけれど、それ以上に写真それ自体が、悲しませも楽しませもしない、意味合いは演出と他メディア(文章など)そして観る人自身の気分で決まるニュートラルさを持っているからではないだろうか。そうも思う。写真には力はない。だからこそ、心地よい。

 あ、因みに報道写真などは別で、あえて「観たくて観る写真」に限っての話です。

レンブラント光線、湾岸幕張PAにて。

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