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なぜひとは自分が生きていることを許せないのか

不思議ですよね。
ひとは、生き物なのに、自分が生きていることを許せない時があるんです。

もちろん皆が皆抱えている感情ではないだろうと思います。
自分が生きていることを許せないと言われて、ぴんとこないひとは一生ぴんとこないと思います。
わたしはそれでいいと思います。

何がきっかけでひとは自分を許せなくなるのか。
それはひとによるし、長い長い時間をかけないと分からなかったり、きっかけなんか無い場合があります。

子供は本当に不思議なことに、いつの頃からか自分が存在する事を許されようとします。
親の愛を求め、親に求められる事を求めます。

求められたいということは、求める事と同義語だとわたしは思っています。

やがて求められたいと求める対象は、友人や組織や仕事や恋人や家族へ変わっていきます。
求められるもののない人は、傷つき、孤立していくことが殆どです。

なぜひとはそんなにも自らを許されようとしなければいけないのでしょうか。

十代の頃、木々を見ていて、あんな風に生きられたらどんなにいいかと思いました。

木は静かで、そよぐ風に葉を揺らし、
色づき、葉と葉を擦り合わせ、散っては、
また当たり前にそこに立ち、これからも立ち続けていきます。

誰かに許されることを必要とせず、当たり前に生きていることを許されたい。

わけも分からずにそう思い続けていました。

別に自殺願望は一切ないし、木漏れ日のちらつきや、揺れる水面が刻む光や、愛する飼い猫の毛並みに留まる太陽の匂いに、どうしようもなく生きることの喜びを感じます。
だからこそ分からない。

どうしてこうも自分が生きることを受けとめられないのか。
生きることとはなんなんなのかという問いとは、これは根本的に違うことのような気がします。

ひとは分からない生き物です。
分からないことを続けていくのです。
わたしは分からないということが嫌いで、この世の全てを言葉にしてやるんだと幼い頃は思っていました。

すべてを言葉にすることができたなら、
そうすれば、今ここにいるわたしの場所から、違う場所へわたしは行ける気がするから。

だけどわたしは行きたいところなど元々なかったのかもしれません。

ただ子供の頃から不思議と、どこかへ行きたいという感情より、どこかへ帰りたいという感情に駆られることがありました。

世界から無くなっていく言葉のひとつで、
帰れない場所に帰りたいと思う気持ちを「HIRAETH」ヒライス、という言葉があるそうです。



きっと、ひとが元々いた場所に、今わたしたちが知る言葉はなかったのではないか。
そんな気がする時があります。

ひとはいつだって言葉によって許されようとするのですから。


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