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トラウマは、「できごと」ではなく「体験」です。


たとえば何か大きな天変地異のようなことが起きたとします。

でもそこに誰ひとりいなかったら、ただデータとして観測されただけだったら、そのできごとはトラウマにはなりません。

その天変地異を体験した人が誰もいないからです。

でもたとえば満員の通勤電車の中では、きっとものすごい数のトラウマが、日々生まれているでしょう。

それを体験し、苦しさや辛さを味わい、なのに逃げることも闘うこともできないでいる人がたくさんいるからです。


トラウマは「できごと」ではありません。「できごとの大きさ・深刻さ・悲惨さ」によるのでもありません。

「そのできごとを体験した人が、苦しさや辛さにちゃんと対処できたかどうか」によります。

ほんの小さな、日常的で些細なできごとでも、何かの理由で本人がちゃんと対処できなかったら、それがトラウマとして身体の中に残る可能性があります。

ものすごく大きな災害や事故であっても、周囲の助けと見守りがあり、共感や思いやりの手が差し伸べられ、本人の力と勇気によって乗り越えることができれば、トラウマにならないこともあります。

トラウマは決して「できごと」でも、「できごとの大きさ」によるのでもありません。

本人がそれをどう体験したか。
それに尽きるのです。


考えてみれば私たち、毎秒、毎瞬間、何かを体験しています。

耳で音を聞き、目で見て、皮膚で感じます。骨や平衡感覚で重力を感じます。目には見えないテリトリーのようなものもちゃんと感じています。

何も体験せずに人生を生きることはできません。生きることは体験すること、と言い換えてもいいくらいです。

このことはつまり「トラウマのない人はいないのだ」とも言えます。

人生を生きて、日々、1秒ごとに、何かを体験する。数えきれないほどの体験をする中で「すべてがうまくいった」なんてことはないからです。

平凡でささやかで、もしかしたら退屈にさえ感じられる日常を生きている人であっても、何かしらのトラウマがあるものです。


だからといって、すべてのトラウマを癒やさなければならない、ということではありません。

トラウマが問題になるのは、そのことで人生がうまくいかなかったり、悩みや痛みが長く続いたり、生きづらいと感じるときです。

小さな小さな、指先のささくれのようなトラウマなら、しばらく放っておけば自然に治ります。ちょっとした口内炎とか深爪とか、痛いなとは思うけれどからだの自然治癒力で治る傷なら、そのままにしておいたってどうってことはありません。

でも、
 どうにも生きづらい
 なぜかうまくいかない
 そのせいで自分自身を否定してしまう、
 痛い、しんどい、苦しい、
というときには

隠れたトラウマにワークしてみてもいいかもしれません。

それはきっと、からだが発信するメッセージです。



トラウマとは体験であり、
体験とは生きることであり、
生きることは人生そのもの

であるならば

トラウマにワークすることは、人生にワークすることです。

できごとそのものは変えられなくても、体験の一部を修正することはできます。体験の中に閉じ込められた、苦しさや痛みや怒りのエネルギーを逃してやることはできます。深く刻まれた恥を、注意深く取り除くことはできます。

トラウマをケアすることは、人生をケアすることです。

トラウマという体験は、修正し、癒やすことができるということです。

トラウマの傷を癒やすことは、人生そのものを癒すことでもあるのです。