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激しいトレーニングをしすぎる人がからだとつながれない理由

からだにフォーカスするからといって、
それは別に、フィットネスのようなこととは違います。

意外なことかもしれませんが、激しいスポーツや過酷なトレーニングをしている人の中には、からだとのつながりが絶たれてしまっている人も多いのです。


たとえばジムでやるようなマシンを使ったワークアウトだったり、マラソンだったり、酸素の薄い高地でマラソン以上の距離を走るようなトレイルランニングだったり、トライアスロンだったり、

激しく過酷なスポーツにハマって、日夜トレーニングに励んでいる人がいます。

そのスポーツが気持ちよくて、自分の嗜好や人生にすごくフィットしていて、目標を設定して頑張ることも楽しくて、ということならそれはそれで問題はありません。

ただ、やりすぎてしまうケースが少なくないわけです。


傾斜のあるコースを走りすぎて膝や腰の関節を傷めたり、必要以上に胸筋や上腕二頭筋が肥大していたり、

それなのに「まだやりたい」「もっとやらなきゃ」という衝動のようなものに突き動かされてしまうとか。

自分やトレーナーが決めたメニューをこなせなかったり、仲間が自分より頑張っているのを見たりすると焦るとか。

つまり「からだを酷使することの中毒になっている」ような状態です。



スポーツやトレーニングに夢中になっているのは、一見すればとても健康なことのように思いますが

やりすぎていれば、それはやはり依存症です。

仕事だって、一生懸命に打ち込む姿勢は素晴らしいのだけれども、「それをしていないと焦る、不安になる」とか、「健康を害してまでも打ち込む」とか「家族や身近な人とのかかわりまで犠牲にして打ち込む」となれば、それは仕事依存症(ワーカホリック)となるわけです。


こうした「からだを酷使しすぎることの中毒になっている」人も、心の奥底に何かトラウマを抱えているということが多いものです。

心の深海の暗く冷たい底に、何かある。

一緒に潜ってくれるバディと共に、小さなライトを携えて、その深海へ潜ってみれば、そこに何があるのか知ることができますが

やっぱり怖いのですよね。

トラウマは、正体が何もわからないうちは特に、すごく怖いものです。

だから、見ないようにする。
最初から何もないことにする。

怖いと、自然にそうなります。

でも
トラウマの気配というのは、日常のふとした隙間に、泡(あぶく)のように海底から立ち上ってきてパチンと小さく弾けるようなことが、あります。

あ、
なんかある。

誰が気づかなくとも、自分だけはわかります。

自分が抱えるトラウマの気配。暗く冷たい深海からのメッセージ。

日常のふとした瞬間に、否応なく感じさせられることがあります。



激しく過酷な運動をする人は、そうした「かすかなトラウマの気配」を感じています。

感じているからこそ、それを感じないように、激しく過酷なスポーツやトレーニングに没頭するのです。膝が痛いのに走り、必要以上に筋繊維を肥大させ、それでも足りないまだまだと、焦燥に突き動かされるように身体を酷使します。

そうしていれば、「かすかなトラウマの気配」を感じなくて済むからです。

何もしない時間、ゆったりとリラックスした静かな部屋で、夕暮れが夜に変わるのを眺めたり、木の葉がさやさやと揺れる音を聴いたりしていると、

深海の泡が、底から立ち上がってきそうで怖いのです。

くつろいでいる自分の耳のすぐそばで、パチンと小さく弾ける泡の音。

小さくかすかでも、それは確かに「トラウマの気配」であるからです。



からだとつながり、からだのことばを聴き、自分の心と対話するということは、

自分のこのからだという入れ物の中に
安心して入っていられている
ということです。

自分のからだに
心がすっぽりと収まり
それ以上でも以下でもない、
過不足なくちょうどいいという状態。

暗く冷たい深海のような静かなひとときでも、安心して自分自身でいられている状態。

思考だけが駆け巡ることなく、焦燥も不足感もなく、世界をもっと探索したいという健康な好奇心を感じている状態。

その好奇心のままに、いつでも動き出せる準備ができているという状態。

でも衝動に支配されてはいない状態。

からだが求めるぶんだけの休息をちゃんと与えられる状態。



からだとつながる
からだのことばを聴く

ということは
「からだに優しくする」ということでもあります。