見出し画像

「笑い」の暴力性から目を背けるな~いじめ再考~

お笑い芸人全盛の時代、でもちょっと待って。

こんちわ、みのくまです。一度更新すると立て続けに更新してしまうのは、ぼくの悪い癖。(水谷豊風)

さて、今日は「笑い」について考えていきたいなと思います。今の時代、というかもう随分と前から、テレビでは「お笑い芸人」がスターになっていますね。そのあたりから論を進めていきたいと思います。

ぼくが物心つくころからすでにテレビはバライティが全盛でした。ウッチャンナンチャンやダウンタウン、とんねるずがスターで、その上には明石家さんま、タモリ、ビートたけしのビッグ3が健在でした。(いまもか)

といっても、ぼくはバライティをそんなに見ているタイプではなかったんですけどね。小学4年生のころのぼくの好きなテレビ番組は「世界ふしぎ発見!」でしたし、母親はダウンタウンのヤンキー感がどうしても好きになれず、ダウンタウンがテレビに出ているとチャンネルを回してしまうのが常でした。

申し遅れましたが、ぼくは1987年生まれですので、その辺りの歴史は数多く書籍化されており、あとで確認できたことも多いです。2000年代以降は「M-1」「エンタの神様」「レッドカーペット」とか色々お笑い芸人も「競争化」され、ぼくもスポーツを観戦するような感覚で楽しんだ覚えがあります。

他方、「行列のできる法律相談所」や「ロンハー」「アメトーーク」といった、いわゆる「ひな壇芸人」の全盛時代も到来します。ぼくはこちらはほとんど興味がなくあまり見ていませんが、今回話題にしたい「笑い」は、まさにこの「ひな壇芸人」的な「笑い」の方なのです。

この「ひな壇芸人」の時代がいつからかぼくは知りません。ラリー遠田氏など、お笑い評論家の著作などを確認すればわかることでしょうが、面倒なのでやめときます。気になる方は調べてくださると嬉しいですが。

ぼくの肌感覚から言うと、「ひな壇芸人」の人気が出てきたのは2000年代初頭です。お笑い芸人が「競争化」されたのと同時期でした。なぜそう思うかと言うと、当時のぼくは中学生でしたが、明らかにクラスの雰囲気が変化したからでした。

「なー、最近こんなことがあってさ。」「で、オチは?」

なんとクラスメイトに、雑談で「オチ」なるものを求められるようになったのです。そして同時に、「空気を読む」という謎の行動がクラスに蔓延していきました。会話の流れを感じ取り、自分の言いたいことではなく、その流れに乗じて的確な話を提供する。まるでクラスのなかが、ひとつのバラエティ番組になったようでした。

「ひな壇芸人」的バラエティ番組は、司会とひな壇で構成されています。そして、司会はひな壇にいる芸人に話を振る。面白い話をひな壇芸人ができれば、司会はわかりやすく面白いということを視聴者に示します。ここで大事なことは、面白いかどうかを決めるのは司会者だということです。

他方、ひな壇芸人がつまらないことを言ったとする。無論、つまらないということを判断するのも司会者に他なりません。つまらないという烙印を押されたひな壇芸人は、司会や同じひな壇芸人にその話を「拾わ」れて、つまらないことを言ってしまったことが面白いという「メタ笑い」として消費されます。バラエティ番組においては、結論は絶対に「面白い」にならなければなりませんので、どんなつまらない話でも強引に面白くさせようとするのです。これは芸人への救済措置なのでしょう。

こう書いてみると、なかなかバラエティ番組もよくできている感じがします。ですが、こういったコミュニケーション消費が茶の間に流され、ティーンがそのようなやりとりに憧れていたらどうでしょう。それが、先述した「オチの強要」「空気を読む」というクラスでの行動原理の起源なのです。

バラエティ番組と学校のクラスを比べて見ましょう。バラエティ番組は司会とひな壇で構成されていました。クラスには当然、司会もひな壇も存在しないはずです。しかし、クラスには元気な子、おとなしい子、リーダーシップのある子、お調子者、暴れん坊など多種多様の人間が押し込められています。彼ら彼女らのうち、影響力のある子たちが司会として君臨するのです。

その結果どうなるかは火を見るよりも明らかです。司会がひな壇芸人に話を振ります。おとなしい子たちはうまく話を返せません。そこで司会や他のひな壇芸人の子たちが、つまらないことを言ってしまったおとなしい子たちを「面白い」ことにしようとします。それが「イジリ」の構造です。

この状況が、ぼくが感じていた2000年代初頭の中学時代のクラスの雰囲気でした。高校も同じだった気がします。「イジリ」を受けた子がどのようにそれを受け止めたかは千差万別だと思います。「オイシイ」と思った子も少なからずいたでしょう。ただ、ぼく自身が「イジラレ」たときを思い出すと不快でした。

受け取り方で「イジリ」か「イジメ」かが決まる。そう思っています。だとすれば、「ひな壇芸人」的な「笑い」の構造は、「イジメ」と限りなく同じだということになりませんでしょうか。

これが本論でぼくの言いたいことでした。

さまざまな「わらい」

そもそも「笑い」とは本当に良いことでしょうか。幸せで「笑う」ことは良いことでしょうが、平仮名で「わらい」と書くと多種多様なニュアンスが生まれます。

笑い、咲い、嗤い。爆笑、苦笑、微笑、嘲笑などなど。

「わらい」とは決して良い表現だけを指しません。特に相手を侮蔑する際に、大いに活用される表現形態であるのです。

お笑い芸人、特に女性のお笑い芸人が顕著ですが、彼女たちは容貌や体型を「ウリ」にしているケースが多い。肥満や痩身、顔貌の美醜を利用して、彼女たちは「わらい」を勝ち取ります。果たしてその「わらい」は「笑い」でしょうか。「嗤い」である可能性はありませんか。

バラエティ番組が学校のクラスに侵入してきて、一番つらい想いをした人はどんな人だったでしょう。これはあくまでぼくの推測ですが、それはきっとひな壇で容貌や体型を「イジラレ」ている芸人たちに似ているクラスメイトたちです。

バラエティ番組を再演したい愚かな子どもたちによって「イジラレ」るその暴力性は、バラエティ番組そのものの罪に想いを馳せないわけにはいきません。

前章と同様のことをくりかえします。「お笑い」は「イジメ」と同じ構造なのです。

人間性の根底から

ただ、だからといって「お笑い」はイケナイとは思いません。むしろ、人間性の本質を抉り出す、非常に批評的な営みであるとさえ思います。

人間は笑いたい生き物です。それと同時に、嗤いたい生き物でもあります。

この、一方は善的な、他方で悪的な「わらい」への欲求。これこそが人間性の本質でしょう。奇しくもお笑い芸人たちが、体を張ってそれを示してくれています。そしてこの「わらい」への欲求がある限り、「イジメ」もなくなることはないでしょう。もし「イジメ」がなくなるときがくるとしたら、それは同時にバラエティ番組がテレビ画面から姿を消すときかもしれません。

ぼくたちは「イジメ」の問題を軽く考えすぎています。「イジメ」に憤りながら、同時にバラエティ番組で出川哲朗を見て「わらっ」ている。そんな不徹底な態度を大概の人はとっています。

でも本当に「イジメ」について考えるのならば、「わらい」について考えなければいけません。それほど問題は表層的ではないのです。ぼくたちは人間性の根底から「わらい」と「イジメ」について再考しなければいけない局面に、いま来ているような気がしているのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?