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母語を尊重することはその子のアイデンティティを守ること。そして日本語学習も守ることにもなる。

※個人の特定を防ぐために少しずつ改変しながら執筆します

ウクライナから来た女の子

私の教え子の一人に、戦時下のウクライナから来日した小学校低学年の女の子がいます。
もともと学習意欲が高い子で、スクール言語の英語とホスト言語の日本語の習得にとても意欲的でしたが、一時期日本語のお勉強が嫌いになりかけたことがありました。

意欲低下のきっかけ

きっかけは、これまでマンツーマンだったクラスに転入生が来たことでした。
それまで、1対1だったので環境の変化に戸惑ったことは間違いなかったのですが、彼女の英語力を考慮して割いていたウクライナ語とつなげる時間も取れなくなり、さらには「ウクライナ語ではね〜」という話を始めた時にその転入生に「今使ったの、英語じゃないでしょ!」と指摘されたことで不満が生じたようでした。

もちろんこのやり取りについてフォローもしましたが、本人にとってはフォローされた自覚を得るのは難しかったかもしれません。
以降みるみる態度が変化し、「日本語は難しい」「日本語はたのしくない」「ウクライナではそんな言い方しない」などネガティブ発言が目立つように。
次第に日本語のクラスに行く前に嫌な顔をするようになりました。

意欲復活までの道のり

ある日、クラスメイトがお休みをしました。
その日も、彼女は「日本語は難しすぎる」とつぶやきながらやる気は最低モード。
いつもよりゆったりと向き合うチャンスだと思った私は、
「わかる。でも、あなたは今すごいことをしてるんだよ。」
と声をかけました。
すると、大きな瞳が私をチラリ。
彼女が興味を示したので、
「あなたは今、たくさんの言葉を知ってる。日本語、英語、ウクライナ語、ロシア語。それってすごいことなのよ」
と続けました。
伏目がちだった目が大きく見開かれました。

3日後。
次のレッスンもクラスメイトはお休み。
この日のレッスン前は以前と比べて少し機嫌が戻っていたようでした。
ひらがな練習中にポツリと一言。「ひらがな難しすぎ」。
私「わかる。たくさん書かなきゃだもんね」
彼女「(「まくら」を指さして)これなんていうか知らない」
私「Pillowだね。ウクライナ語ではなんていうの?ロシア語も一緒?」

すると、急に生き生きとしてきて「ウクライナ語とロシア語はいっしょ!〇〇っていうの!」と、言うのでした。

もうひとつの母語アイデンティティ

話は遡って1年ほど前、来日したばかりの彼女の母語は、おそらくロシア語でした。
「おそらく」というのも、彼女自身は自分が話している言語をウクライナ語だと当初言っていたのですが、下調べ済みのウクライナフレーズとは全くことなっており、過去にロシア人の友人から基本的なフレーズを教えてもらったことのある私は「これ、ロシア語だな」と直感したのです。事実、ウクライナは地域によってはロシア語を使用する地域もあるようです。

しかし、情勢が情勢なのでその時は深く突っ込まず、彼女が楽しそうに自分の言語について教えてくれるのを聞いていました。

ある日のレッスン中、教えてもらったフレーズについて「あれ、ウクライナ語でなんだっけ?〇〇?」と聞くと、ものすごく怖い顔をして「ちがう。それはロシア語」と言ったのです。
気づいたのだな。
と私は思いました。
なんらかのやり取りがお家であったのでしょう。どうやら「ウクラナイ語」をウクライナ語として学びはじめたようで、これまで私に教えてくれたフレーズやノートに書いた色々な言葉を自分で訂正し始めたのです。

母国を攻め立てている国の言語を、自分が話していた。
それを知った時の彼女の気持ちは、私なんかが想像して口にすることもできないくらい苦しいものだったのではないかと思います。
「ちがう。それはロシア語」と言ったときの彼女の表情からは、小学校低学年とは思えないほどの強い感情を感じました。

日本語で教えても難しい、英語でいってもわからない、そんな時はウクライナ語(ロシア語)でという流れに安心感を覚えていた彼女でしたが、ここからしばらくロシア語とウクライナ語のはざまで折り合いをつけながら過ごすことになりました。

でも、さすがの忍耐強さ、向上心の強さ。
それが彼女の強みだったわけですが、ご家庭でもたくさんやり取りをしているのでしょう、みるみるロシア語とウクライナ語の区別をつけ、それを授業に活かしてくるようになりました。

彼女の中で、「私のことばはウクライナ語。でもロシア語もちょっと知ってるよ」という「ちょっと性」の母語アイデンティティが確立された様子を垣間見た経験でした。

「ちょっと話せるよ!」からの大逆転

時は戻って、クラスメイトがお休み中の2回目のレッスン。

彼女「(「まくら」を指さして)これなんていうか知らない」
私「Pillowだね。ウクライナ語ではなんていうの?ロシア語も一緒?」

という問いかけに、急に目を輝かせた彼女は
「ウクライナ語とロシア語はいっしょ!〇〇っていうの!」
と、生き生きと言うのでした。
「(ウクライナ語/ロシア語で)ノートに書いてもいいよ」
というと、ウクライナ語でこのアルファベットは英語のこの音、日本語には無い音でしょ?などと説明しながら楽しそうにメモをとりました。

そして、
「私はウクライナ語が話せる、英語が話せる、ロシア語がちょっと。」
というので
「あなたは日本語も知ってるじゃない。」
と追加すると更に目がキラキラに。

そして、
「私も4つだ!英語と日本語、韓国語、今中国語もちょっと勉強してるよ。
あ、待って!やっぱり6つだ!だってあなたがウクライナ語とロシア語を教えてくれるもんね!」
というと、最高に輝いた笑顔を見せて「そう!私も日本語頑張る!」と言ってくれました。

以降、クラスメイトが戻ってきても日本語の授業に前向きに参加してくれるようになりました。
ウクライナ語やロシア語の話題を突っ込まれてもひるむこともなくなりました。

さらには、このクラスメイトには国籍とはまた別に中国や日本のルーツがあったのですが、クラスメイト自身も自身のルーツや知ってる中国文化を教えてくれるようになっただけでなく、「パパは日本人だから、ひらがなはパパとお勉強するの!」とこちらはこちらで日本語の勉強に意欲を見せてくれたのでした。

「ちょっと性」の大切さ

※「ちょっと性」というのは、上智大学主催の国際シンポジウム「移動する子どもたちのことばの教育」(2023年12月16日)で紹介された用語の
一つです。母語・継承語を取り巻く現状における「〇〇語をちょっと話せる」ということの価値について言及がありました。

自分のルーツを責める人がいない。
自分の言語を止める人がいない。
その結果、ホスト国(滞在国、受け入れ国)のことにも前向きになれる。

今回は、そのことを目の当たりにした経験となりました。
こんな小さな子どもたちに教えてもらうことができました。

「ちょっと」だっていいんです。
子どもたちは、どの言語だってまだ「ちょっと」しか知りません。
大人の「話せる」は子どもの「話せる」量をイコールではないのです。
日本人だって、大人の知ってる語彙量と比べて子どもの知ってる語彙量なんてまだまだ「ちょっと」なんです。
だから、「ちょっと」だって「十分」なんです。
それを大人が認めていくことで、子どもたちの視野が広がるなら、価値観が柔軟になるなら、思考が深まるきっかけになるなら、どんどん認めていってあげるべきだと思うのです。

そしたら、外国語学習を「きらい!」という子どもが少しでも減るのかもしれません。

この子たちには、まだまだ困難なことや葛藤が待っているかもしれません。
でも、子どもたちはその小さな積み重ねが大切だと、私は考えています。
自身のルーツと向き合うこと、自身の言語レパートリーと向き合うこと。
その一つ一つが、未来のその子を支えるなにかになると、私は信じています。

予告・・・というか私の展望

実は、母語・継承語について、私にはもう一つのエピソードがあります。
今回の子どもたちとは全く逆の事例です。

具体的には、「私の母」についていつか書きたいなと思っています。
昭和の、まだ多文化共生なんて感じられなかった時代の、田舎で成長した人の話。
母に怒られるかな。嫌がるだろうなぁ。その前に、考えただけで私が泣きたくなるなぁ。
でも、私の母との関係無くして、今の私の考え方は生まれていないと思うのです。
でも、母の気持ちも尊重したいので、いつか。いつかです。

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