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商品化する教育

大学教育が商品化している

僕の知るかぎり、最も優秀な院生の友人がそう嘆いていた。

「教育の商品化」とは、客(学生)を呼びよせるために授業内容を簡略化したり、目を引くような俗っぽいものにしたりすることを指す。彼女の出身大学では、そういう気運が高まっているというのだ。

「教員は学生を舐めすぎている。学生は高い能力を持ち合わせているのに、その能力に見合った(あるいは期待を込めて、その能力より少し上の)講義をしない。『今の学生はどうせ勉強しないんだろ?』と言わんばかりに、単位の取得条件を下げてかかる

僕の出身大学では教員の誕生日を祝えば、単位が貰えるなんてものもあった。僕はその教員の授業をとったことがないので、周囲の学生から聞いた話でしかないが、内容はつまらなかったらしい。

淡々とレジュメを読み上げ、授業の終わりに出席確認の小レポート出し、期末には1夜漬けすら必要ない程度のくだらない問題を出す。実際そういう授業の方が学生には人気であった。その方が、単位を取るのが簡単だったから。

「大学では学べないものがあると気付いた学生が、どんどん外に出て、自己実現していっている。優秀な学生ほど大学の外に行ってしまう」

学生が学問に興味を持たないという事実はあると思う。僕自身、大学では学問を修めることよりも、将来のキャリアを考える活動をしていた。でもそれは、大学がつまらない場所であったからにほかならず、僕にはボランティアやインターンを通して学べることの方が多かったからに過ぎない。

前にも書いたが、今どきの学生は決して冷めているわけではない。熱中できる何かを探しているが、それが見つからないから遊びに明け暮れているだけだ。だから、教員が学生をちゃんと認め、期待してくれるのなら、自分から進んで学ぶ場合も多々ある

そのため、教員が学生に学問を教える上で、PBLといった教育パッケージや楽に単位が取れるカモ授業を用意すること(教育を商品化させること)などはあまり重要ではないのだ。大事なのは、学生のポテンシャルを信じ、学問の面白さを淡々と伝え続けていくことだ。

これは綺麗事ではなく、実際僕が所属していたゼミでは成立していたことである。ゼミの準備のために週に何回も集まったり、大量の英書を読んだりしなければならなかったが、僕らはちゃんと学問をしていた。

学問が社会の役に立ちにくい、就職において大学の成績は使わない、授業の質が低い、教員数が少ないためアクティブラーニングができないなどの構造的な問題はもちろんあるが、1つの授業を受け持つ教員からすれば、そんなことあまり大した問題ではないのではないだろうか。

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