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あなたの背中に助けられ:パワストとわたし

パワスト、といえばスピリチュアルなパワーを感じるべきものだと思うが、自分にとっては少しちがうもののように感じるのはなんでだろう、という話。

母が好きだった、もの。

正直 それ以上でもそれ以下でもなかった。
気づいた時には周りにそういう石やブレスやあれやこれやが増えていっていて、いわゆる「あるのが当たり前」のものであった。だから、購入されたものを判別するために、当時は一覧の用紙に引かれた蛍光ペンにときめきを覚えたものだった。
当時、インターネットで調べる、ということもなかったので、ただただ、名前の書かれたシートを見ては夢を膨らませていた。効果が重なるから、この石とこの石がいいんじゃないと簡単に言ったこともある。地元にはそういう石屋がなかったから、母が遠出したときにみかけたものの話だけで満足はできていた。
金額なんか気にせず母にねだったりもした。

けれどそれは、学生特有の「私もほしい」だけであり、ある意味、カードゲームのレアカードを組み合わせたドリームチームを作る! というレベルの話で、特別何かしらの意味を本当に求めているようなわけではなかった気がする。

気づけば、沼

地元から離れるときに母からいくつか置物と、ブレスレットをもらった。
今でもいくつかは自宅に残っている。自分では特に意識したことはなかったが、左の手首になにかしらついているということは、なんだかんだで当たり前になっていた。し、たぶんそれがないと落ち着かないのはなんというかある。意味合いによって左右が違うようだが、私は右利きのくせに右手に時計をつけるタイプだったので、もっぱら左の手首がパワストさんの居場所だった。

いわゆるキラキラした可愛い石、ではなく、ゴリゴリに単色。一種類の石で固めるほうがなんとなくしっくりきていた。のくせに好きな人と会うときはこの色、という、分かりやすい女子、であった。でも、そういう気分を上げるためとはいえ、いつもと違う色、となるとそれはそれで緊張したので、なんというか「合ってなかったのかな」とは思う。

きらきらしたものはすき

そういうショップが身近に、なんならショッピングセンターの中に入っているということも知ったのが大きかったのだとおもう。どこかしこで見える安価なパワーストーンに惹かれつつ、ショーケースのぷるぷるした石もいいなあ、なんて夢を見る程度の人間であった。

最近、ミネラルマルシェほか、そういう展示販売を兼ねている場所も何度か足を運ぶようになり、なんというか「案外身近だったわ」と理解したのは僥倖だったというか、なんというか。

もちろん宝石質であったり、採掘からレアなものでは手が出ないものがあったので、物見遊山に見えていた事だと思う。実際、眺めているだけなら離れてほしいと言われたこともあるし、価格を見て、手持ちを余裕で超えて内心泣きながら移動したこともある。そういう意味でも、仕入れの現場の方の雰囲気を知れてよかったと思う。

というか実際、パワーってなによ

こと人間関係において、どうにもこうにも と思ったことは正直ある。勉強でもある。だからまあ、本当の意味のお守りとして付けているようなところではあるが、実際に効果があるのかないのかも自分は正直わからない。

あれが効く、これが効く、に引っ張られて、自分もたくさん、痛い目を見たし、それがある・ないからこうだったと勝手に紐付けることも多い。
いや、むしろそれがある種の本質なのかなとは思う。

そんなわけで、効果効能にはまっていた時期に、オペロンゴムの結び方も勉強したが、未だにみょんみょんしているうちに、石一個分のたわみがでる。なぜかはわからないし、多分これからも変わらないと思う。

そうして出来上がった分で、お気に入りのものもあれば、付けていてなんとなくしっくりこないものも、当然出てくる。自分はずうっと10ミリ球を使っていたので、それより小さくても、大きくてもしっくり来ないものだが、なんというか、最初の刷り込みってこわいなと思った(どうやらわりと大玉の部類に入ると知って個人的には驚いた)

石の真贋も、正しく分かっているかどうかあやふやで、もしかしたら違うものかも、なんて思うことはある。あるけれどまあ、買ったしうちのこになったしな、で甘やかしているところはある。
あと、割ることはそれほどないが、ひびだったりへこみだったりはよくみるようになって、なんというか、そういう「壊れる」ものなんだろうなとは思った。

そういうふんわりした気持ちでも、付けているのが自然になったのはありがたいなとは思う。きずがついてパワー不足になるならうちの石は何割かは病んでるかもしれない。酷使。一応、よく言われる煙でいぶしたり音を響かせたり、はしている。しているけれど、とは思う。
自分がつけていて、不快にならない程度、の意識付けでいろいろ考えてやるようになったのも、大人としての身だしなみ、というあれなのかもしれない。今のところ、表だってなんでつけているのか、と問いただされたことはない。ありがたいことである。

そうして春、出会いの時期

たまたまライブコマース形式で販売されている販売店があり、前からフォローをしていたのだが、まだ履歴が残っている、というところで思い切って飛び込んでみた。
この中だとどれがいい、という中で自分はこれがほしい! 来てほしい! と思ったそれを購入した。
正直買った時は金欠だった。
何でこんなタイミングで買ってしまったんだろうというぐらいではあったのだが、それ以上に、自分の手元にそれがほしい、という熱量が勝った。

結果は、あったほうがよい、という気持ちが増えた。
まあ、ある意味しっかりお金をペイしたのだから、というものもあるだろう。
心持ち穏やかに過ごすきっかけが増えた、といってもいい。
正直、置物タイプは好みでなかったし、なんなら届いてから「思ったよりでかいおもい」という失礼な感想も思っていた。が、結果この重さにもサイズ感にも満足しているので何がどう転ぶかわからんな、というのが本音である。

該当店舗で石を買おうと決めた理由も、ミネラルショーかマルシェかで、現地の店員さんの対応が良かった、それだけである。前述のように、いわゆる客層として捉えられなかった経験もあり、単純にさらっと対応してもらえたことがよかったのだと思う。(し、逆にそういう層をターゲットにして販売しているのかなと最近思うようになった)
実際のところ、リアルタイムで販売をしている時間帯ではなかったので、残っていたら買おう、レベルのそれがここまで大きな影響というか、存在感を持つようになるなんて、というお決まりのパターンである。

そうしてトップ画像の話に戻るが、これはガネーシャ像を模した石である。 ちょうど手のひらで握るのによく、なかなか寝付けなかったり、何かむしゃくしゃしてる時に握るようにしている。たまに撫でるだけのこともある。

今まではむしゃくしゃした気持ちのまま、ついったーに書き込んだり、書き込んだり、わーわー泣いたり、そんなわけで情緒不安定だったわけだが、これを手に入れたことにより、いったん物理的な刺激を得ることができ、片手が塞がった私ができることと言えば、ついったーよりも、そこで寝てしまうことであると理解した。

そのとき流行っていたヨガの呼吸やら、マインドフルネスなんぞをしたり、めっちゃむかつくーと思ったまま眠ってしまったり、する。都度いろんなパターンがあるが、少なくとも他者に向かうあれこれを自分の腹の中に収めるように矯正できつつある時点で、ある意味買った分の効果は有料の瞑想アプリよりも効果的なのだろうなと思う。定時に瞑想、とても苦手だったので、通知放置はめちゃくちゃしてしまった。

正直これらの効果が石という存在からくるのか、それとも鉱石の種類からくるのか、はたまた購入したからなのか、未だによくわかっていない。
少なくとも重量感だけで言えば、ほかの石よりも重たいぶん、なにがしかがみっちり詰まっているのだと思う。夢や希望だったらいいけれど、そこに入っているのは現実だけのような気がして鳴らない。

購入店舗からはこの石です!と言われているけれど、未だにそれが本当かどうか、確かめる術はない。だからこそ、それだと思うだけ、そう思っているだけでいいのだと思うようにしている。
握りすぎて若干塗装に色ハゲが発生してしつつあるが、まあそれもうちのこらしさ、と言うことにしている。

パワストはいいぞ、とは思うけれど、それ以上に私の中では普通にあったものがたまたまぬいぐるみではなくてパワストだった、という話なだけなのだが、はたから見たらやばいやつだし、そういう界隈に詳しいのかとか見えるのかとか言われそうな気がするけれど、全く私はそういう界隈のことはわからないし、わかるんだったらいの一番に母の存在を感知できなければ意味のないことだとおもう。

そういう意味では、父が「なんでそんなわけのわからんものに頼るのかわからん」というのも一理あるとは思う。それでも自分は

だってかわいいじゃん。見た目が。

などと言って家族をあきれさせるのだと思う。

私の好きなものをたいがい否定されてきたように思う私が、私自身を好きでいられるためには、もしかしたら必要なものなのかもしれないなと、ここまでつらつら書いてきて思うのだった。

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