歓喜天 〜この一瞬の奇跡の為に、生きるということ〜  山田玲司作品展『宗教改革』を観て

『歓喜天』=チベット密教の仏像で、男女が交わる瞬間の歓喜の姿を形にしたもの。


私が、玲司先生からその話を聞いた時に思ったことは、こうだ。


男女が抱擁しあう姿を歓喜天として目指す理想なのは、頭ではわかるが、最近の男女コンテンツが性欲の代わりみたいなものや、ミソジニー的なものばかりで、それに触れすぎたせいか、歓喜天が至高とは私は素直に思えない。それよりは、男同士や女同士の仲良くしている姿の方が、尊い(今風ならてぇてぇ)と思ってる。

そういう気持ちのまま、山田玲司の作品展に行った私は、自分の間違えに気づく。
歓喜天って別に――男女がどうのこうのって話でもないんだな、ってことに。

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私は、玲司先生の絵を見る。


そこには、男と女が抱き合ってる姿が見える。

女には羽が生えていて(たまに男も)、服がなくて、白く描かれた姿は、仏というより天使のようである。


下世話に思えば、それは裸コンテンツでもあるし、
昨今のファンタジーに触れていれば、天使はありふれたモチーフのようにも思う。

でも私は、『これ』は『それ』とは違うなと思った。

だって、見て見ればいい。そこにある天使を。

私が今まで見た天使の絵と言えば、俗世から超然と離れているか、天使を見つめるオタクの僕との二人だけのセカイ系――つまりは、閉じた関係しかなかった。

しかし、ここにある天使は誰かと交わっている。
自らの輪郭が溶ける程に、それが世界とも交わって見えるように、溶け合っている。
その有り様を通して、ここにある歓喜ある存在は、世界へと広がっているのだ。


そこに気づいた時、私の感覚はその一つの絵を通し、周り全ての絵へと繋がり、歓喜天の本当の意味を知る。


歓喜天とは――あらゆる夜を、越える為のものだと。


人生には、どうにもならない時がある。


毒親の家庭に生まれたり、
学校でいじめを受けたり、
会社でうまくやっていけない時もあるだろう。


嫌な奴に会わないといけない時もあるし、
病気や老いで苦しむ時もあるし、
求めるものが、どうしても手に入らない時もある。


そして勿論――大切な人が亡くなることも、あるだろう。


その時の為に、この絵と歓喜天はこの世界にあり、輝く時を待っているのだ。
その絶望の時に、最も幸福だった瞬間を思い出し、その相手へと、生きる力を与える為に。


そこに至った時、私は思い違いをしていたことを知る。
これは男女の姿をしているが、別に男女の姿と限っているわけではないと。

それは深く、この絵達を見据えていればわかる。
この絵は、この絵達は、何も限定していないことに。


いろんな国の、いろんな地域の、いろんな相手の、いろんな日々が、ここにはある。
国を限定してないし、人種を限定をしてもいないし、暮らしを限定してもいない。

共通すべきことは、たった一つ。

この、大切な相手と繋がったという奇跡の瞬間があるからこそ、この人生は生きる価値があるということ。


それは、価値観が多様とは言いつつ、結局誰も幸福にはしない、金と物質の資本主義の宗教の中で、幸福の根本に戻ろうという主張で。
それはかつて、教会が腐敗し金に塗れたとある宗教が、幸福の基本となりうる聖書へと戻ろうとした『宗教改革』のようだった。

そうして、ようやく息ができた私は、この絵が展示されている場所を見渡す。

この絵が展示されているJINNAN HOUSEというギャラリーは、資本主義の権化のような、雑踏した渋谷の場所にありつつ、緑と穏やかなカフェが広がっていて、奇跡のようにのどかな所だ。


そういう場所に置かれた、この日の歓喜天は、日差しの中で輝いていた。


――奇跡は、ここにあるよと伝えるかのように。



私もいつか、ずっと生きていても良いと思える、歓喜の相手を得たいと、そう思った。




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