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愛のカタチってそれぞれだけど

こんばんは。

何年か前に職場で紹介したい本の一節を黒板に書くという仕事をしたことがあって荒木陽子の【愛情生活】を取り上げたことをその黒板の記録用に撮った写真を見返していて思い出した。

『彼が夫の顔を見せるのは、疲れて帰って来たこの時間だけである。その他の時間は、彼は私にとって、夫というよりは〈写真家〉である。私も妻ではなく、彼の〈女〉でいたい、と思っているのだが。』

という一節で〈ノスタルジアの夜ふたたび〉という小題の末尾を抜粋した。今これを読むとまた感じ方が全然違って思わず「はあ〜」とため息が出そう。当時はまず表紙買い(いわゆるジャケ買い)して、写真家の夫との結婚生活について語る荒木陽子にこんな自由奔放な女性良いな、こうなりたいなってなんて軽い憧れとちょっと背伸びして共感できるなぁなんて思ったりしていたけどまあ可愛らしいモンだ。

ちゃんと読むと結構クレイジーな夫婦関係なんだけどびっくりしたり引いてしまったりはしないで「なるほどね」って感覚で受け入れられる。

さっきの一節に注目して想像してみると〈女〉であり続ける関係ってものすごく自立し合っていないと成り立たないなと思ったのだ。夫婦ってパートナーと言い換えて表現するのがしっくりくる。それはお互いを異性として日常的に意識しない関係。何をするにも頭に浮かぶ関係(相手のことを想うのもそう、生活を営むのに関連を免れないから思うのもそう)。家族になっているわけだから恋人=異性として意識する関係とは離れてしまうのが仕方がないところなんだろうけど、二人は違う。恋人でもない、夫婦なんだけど、〈男女〉の関係がメインなんだろう。だからものすごいものを感じる。

私の恋愛の価値観の中に『お互いの人生を大切に生きる』というのがある。恋人と結婚相手のボーダーラインは自分の中でとても曖昧で、でもどんな名称の関係であれ自分以外他人である以上それぞれの価値観や人生の選択を尊重し合いたいという考えだ。荒木夫妻のようにものすごく自立するかはまだ分からないけど、相手がいなくても生きていけるくらいに自立しておくのが課題。ここでの自立は一人でも生きていけるように仕事をすることでもあり、生きがいを持つことでもあり(今のご時世さらに大切)、相手を思いやることでもあり、お互いの相手以外の部分を尊重することでもある。自分自身の幸せって何だろうって考えてそれを大切にするために生きる。お互いが重なり合う部分は一緒に考えて前に進む。もちろん、悩みを聞いたり苦労を共にすることも重なりの部分に含まれている。

パートナーを作らずひとりで生きていけばいいんじゃないかと捉えることもできるけどそうではなくて、恋人関係、夫婦関係なんでも良いけど特別な相手を作ることやその相手との時間を意識的に大切にするって人が豊かになるのに必要なことなんじゃないかってことを前提に考えているし、友達ではなくパートナー(特別な相手)との付き合い方について向き合った結果、これが後悔の少ない考え方だなと今は思っている。私も自立した〈女〉であり続けたい気持ちが強いかもしれない。

一見、荒木陽子が夫に対しても自分自身にも寛容で自立していてかつ女としての魅力を持ち続けているすごい人だと思っていたけど、実際は夫婦どちらの側面も欠かせない関係性なんだろうなと感想を改めた。私のこの価値観も、一人歩きはできないもので、共有し一緒に育まなきゃ意味がないなと。感嘆の「はあ〜」である。

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