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【補章】 ナイチンゲールという人


〜理想主義者であり、現実主義者としてのナイチンゲール〜


クリミア戦争に従軍し最後の患者を送り出したナイチンゲールは偽名を使いひっそりと帰還の途につきます。英国中が国民的英雄の姿をいまかいまかと待ちこがれるなか、誰にも気づかれることなく帰国しました。心身ともに衰弱した痛々しい姿でした。帰国後は周囲の熱狂を避けるようにロンドンのホテルの一室に住居を移します。限られた人たちだけがナイチンゲールの住居を訪ねました。ナイチンゲールは病に伏せながらも勢力的に仕事を続けました。膨大な著作や数々の実績がその一室から生み出されました。90歳の生涯でした。墓石には「F. N. Born 12 May 1820. Died 13 August 1910.」と、イニシャルと生没年月日だけが記されています。


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晩年のナイチンゲール

ナイチンゲールが看護師として実務についたのは「淑女病院」の総監督の職とクリミア戦争の従軍を合わせた2年半の期間だといわれています。看護師として一生を貫いたイメージの強いナイチンゲールですが、クリミア戦争帰還後の30代後半からの人生は英国陸軍の健康管理のための組織改善や看護にたずさわる人材の育成が主となりました。統計学や衛生管理、建築家や著述家、教育者として多方面に才能を発揮しながら、社会に看護を〝拡大する〟下地をつくっていきました。

ナイチンゲールは英国の上流階級の子女として生まれました。地位や将来の生活の安定も約束された、周りからみるとなにひとつ不自由のない環境です。ナイチンゲールはそこで繰り広げられる社交的な生活に興味を覚えることができませんでした。やがて慈善活動をきっかけに困窮者の生活や病院の実態を知り、看護を一生の仕事としたいと考えるようになります。当時の英国では病院の看護師は最下層の女性が従事するいかがわしい仕事とされていました。ナイチンゲールの願いは家族に聞き入れられることなく、逆に生活を束縛されるようになりました。

ナイチンゲールの一生は30代前半の看護を実践した2年半の前と後に分けられます。家族や周囲の反対を押し切り自立して看護の道に進む時期とクリミア戦争帰還後の病に伏せながら近代看護のシステムづくりをしていく時期です。その生涯は決して順風満帆なものではありませんでした。当時の時代にあって女性の自立と看護という職業の確立は今日とは比べものにならない困難をともなうものでした。クリミア戦争従軍の活躍でイメージがつくられ、クリミアの天使とかランプを持った貴婦人、あるいは献身の精神などと形容されることの多いナイチンゲールですが、その本質は理想を掲げて実践する、理想主義者であり現実主義者でした。


ひとりでも多くの人にナイチンゲールが言う「生活を整える」ことの大切さを伝えたい…、そんな願いからnoteで発表することにしました。本記事は一般社団法人チーム医療フォーラムの季刊誌『ツ・ナ・ガ・ル』35号(2020年6月発行)の特集記事を転載したものです。ほぼ毎日「1章」か「1節」ずつ記事を掲載していきます(下記の目次をご参照ください)。

※本記事は以下に記載した文献を出典とし、参考にしています。 看護覚え書 フロレンス ナイチンゲール (著) 現代社、新版 ナイチンゲール看護論・入門 金井一薫(著) 現代社 白鳳選書、ナイチンゲール言葉集 現代社 白鳳選書、ナイチンゲールの『看護覚え書』金井一薫(著) 西東社、看護覚え書きフロレンス ナイティンゲール (著) 日本看護協会出版会、フロレンス・ナイチンゲールの生涯 宮本百合子 (著) Kindle版、他。
・記事監修:秋山和宏(医学博士、東葛クリニックみらい院長)


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