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読書の時間「夜と霧」

読書セラピーの寺田真理子さんがぎっくり腰になったときに読んでいたという、おすすめ本「夜と霧」を読みました。

精神科医でもある著者、ヴィクトール・E・フランクルはユダヤ人としてナチスドイツに連行されます。強制収容所ではまともに食事もとれない中、極度の低栄養状態で過酷な労働を強いられます。時には現場監督からの卑劣な暴力、寒さと飢えや非衛生的で劣悪な環境など、言語を絶するものでした。

収容所での凄惨な歴史的事実を記録したほかに、フランクルの精神科医として、人間の精神的な面への描写も胸をつかれるものがありました。

被収容者の内面が深まると、たまに芸術や自然に接することが強烈な経験となった。この経験は、世界や心底恐怖すべき状況を忘れさせてありあまるほど圧倒的であった。

収容所で、作業中にだれかが、そばで苦役にあえいでいる仲間に、たまたま目にした素晴らしい情景に注意をうながすこともあった。
たとえば、秘密の巨大地下軍需工場を建設していたバイエルンの森で、今まさに沈んでいく夕日の光が、そびえる木立のあいだから射しこむさまが、まるでデューラーの有名な水彩画のようだったりしたときなどだ。

人間はどんな苦しい状況にあっても、自然の強烈な美しさの前には感動が広がり、他者と共有したいという気持ちが芽生えるのだと思いました。
自然や芸術は、人間に生きる力を与えてくれるのだと改めて実感します。

1944年のクリスマスと1945年の新年のあいだの週に、かつてないほど大量の死者を出したのだ。医長の見解によると、過酷さを増した労働条件からも、悪化した食糧事情からも、気候の変化からも、あるいは新たに広まった、伝染性の疾患からも説明がつかない。むしろこの大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる、というのだ。

ニーチェの的を射た格言「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることも耐える」
被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。
ひるがえって、生きる目的を見出せず、自分が存在することの意味をなくすとともに、頑張り抜く意味を見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人々はよりどころを一切失って、あっという間に崩れていた。

自分を持っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

人間がなぜ生きるかを、生きる目的を知っていることが、精神的にどんなつらい状況も生き抜いていく力になるのだと深く感銘しました。

この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではないない人間と、ということを。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。
この人間らしさとは、あるがままの、善と悪の合金とも言うべきそれだ。あらゆる人間には、善と悪を分かつ亀裂が走っており、それはこの心の奥底にまでたっし、強制収容所があばいたこの深淵の底にもたっしていることが、はっきりと見て取れるのだ。

わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とは何者か。人間とは、人間とは何かを常に決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ。

他にも精神科医として収容所での人間を分析した思考には考えさせられるものが多々ありました。

ナチスドイツ側の人間は、同じ人間に対してここまで非情で悪になれるものかと、怒りと同時にゾッと背筋が凍るような思いになりました。この歴史的事実と精神科医としての分析から、人間の強さと弱さを垣間見たように感じます。

どんな理由、どんなことがあっても生命を奪うことは許されない、一人ひとりの生命がいかに尊いことか。


お読みいただき、ありがとうございます。

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