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”絶望”がその人の強みへ転化する

本当に困難なことを乗り越えた人には寂寥感が漂っていない。

昔におばあちゃんから小さかった頃の話を聞いたことがある。当時は戦後まもなくで、両親は亡くなっていたから親戚に引き取られて幼少期を過ごしていた。

子どもの中でおばあちゃんがその家で年長者だったから、義兄弟の面倒を見ていた。学校には中学まで通えていたが、一番つらかったのはみんなが使っていたり持っていたものを、自分は貧乏だったため手にすることができなかったことだと言っていた。

それぐらいしか知らないのだけれど、本当に辛いことを知っている人は、他人に自分の苦労を知らしめようとしない。

今の80代を超えている世代は、戦後の何もなかった日本を、復興させてきた世代である。家族や住む場所を失くした人はたくさんいただろうし、貧しくてその日食べるものもなかったかもしれない。少なくとも毎日お腹いっぱいまで食べることなんてできなかったと思う。

そんな絶望の状況に置かれてもなお、生き続けて社会を回していたのだから、その内には計り知れない”強さ”を兼ね備えているに違いない。

そして、そのような時代をくぐり抜けてきた人たちほど、心の中にゆとりを持っており、いついかなるときも動じることなく、かつ前向きでいるように感じる。

現代には現代なりの生きづらさがあるけれども、やはり絶望するには早過ぎる。確かに辛くて悲しい境遇に置かれることもあるけど、何もかも失った状態になることはまずないので、そこまで深刻に考えなくても、案外何とかなるものだ。

少なくとも、何とかならなくても、知恵を絞り誰かに助けを求めれば、何とかすることができる社会ではあるように思う。

若者の前途はいつだって不安に溢れている。

近代化していく明治以降から日本は戦争ばかりして多くの血と涙を流し、高度経済成長期の時代もキューバ危機やベトナム戦争、ベルリンの壁崩壊など冷戦が続いていて、いつだって明るい未来なんて思い描けたわけではない。

若者には様々な感情による経験値や、想像力を構成するための知恵や教養といった情報量がまだ少ない。故に先の見通しが立たないような状況や問題に直面したときに、ぼんやりとした不安を自力で処理することや、巷に飛び交う情報を適切に疑う、ということができていない。

『たちどまって考える』 ヤマザキマリ(一部要約)

私はまだ23歳で、ときどき人生というものが途方もないように感じるときがある。いつだって何かの準備や予行練習をしていて、気づいたら一生を終えているのではないかと、漠然とした不安感を抱いている。

幼稚園から小学校へ上がる準備をして、次は中学の準備、高校の準備、大学の準備、就職の準備、その次は将来のための貯蓄やパートナーの準備をしなくてはならない。まるでベルトコンベヤーみたいだなと、思ってしまう時があるわけだ。

そして、少しでも周りから遅れを取ると、自分の練習量やクオリティを疑ってしまう。

でも、それはとても悲しいことだと思う。
人生に競争なんてないし、誰にも優劣はつけられない。お金や素敵な人たちに囲まれていても、心は孤独の人もいるし、お金がなくてもたった一人の信頼できる人がいるだけで、心を豊かに暮らしている人もいる。

確かに不安は常にそばにいて、いつだって私をのぞき込むけど、これからも自分にできることをコツコツやっていくしかないと思っている。そうやっていくうちに、少しずつ知恵や教養、経験が身について、自分の内なる力になっていくと思う。

今はまだいろんなことに動揺したり不安になるかもしれないけど、そういう感情の経験が自分の強みへと転化する時が来るかもしれない。

そう信じてこれからも歩んでいく。




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