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利他主義とは流動性とみつけたり。だから海なんだな、

 相手の求めに応じて変幻自在に自らのカタチを変えて応じる。それが利他であるとする。

 変幻自在に変わるためには流動性が必要だ。

 一番の流動性の持ち主は氣体。我々の身近では空氣という事になると思うが、この空氣、我々にはよく見えない。
 風のある事は雲の流れでもって知ったりするが、その雲とは何かというと水である。氣体はよく見えないので、けっきょく、水という液体から流動性を学ぶ事になる。
 考えてみれば、「流動性」の「流」という時は「氵:サンズイ」で水由来の漢字だ。

 「行く川のながれは絶えずして・・・」(『方丈記』鴨長明)
 「ああ、川の流れのように・・・」(『川の流れのように』秋元康)
 と、日本では「流れ」といえば川の水をイメージする。流れといえば水、それはきっと世界人類共通だろう。きっとカット。

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水・海の性質・陸の性質

 水は型に合わせて自在に形を変えることができる。苦もなく変える。
 水は凹みができれば瞬時にそれを埋める。全体で埋めて差分は均等に分け合い誰か一人だけが大きな犠牲を払うということがない。

 人が、人の世が、水のようであるなら、今のような格差社会という状況にはならないだろう。

 人の文明は長らく陸の上で綴られてきた。
 神が人に与えたこの奇跡の地球という環境は、その7割が水・海であるわけなのだが、人はその3割でしかない固形の陸上で生活を営んできた。

 陸は、山あり谷あり。水平という言葉の対局が陸であると考えると、その性質をよく理解できる思う。高いところは長らく高いままそびえているし、谷は長らく削れて低いままだ。高低差すなわち格差が陸の持つ性質の本質的な部分だ。
 陸は固形。固いので格差ができてもそのまま。

 思えば、「利己的」とは「利固的」ということかもしれない。

我を固(かた)くなに主張するのが陸的性質の利己主義。

 
自在に形を変えて水平を保つのが海的性質の利他主義。
 

 そういうことなのかもしれないなと、思った。

主義というが・・・利他主義は心情ではないか?

 利己主義・利他主義。「主義」という。
 「主義」を辞書で引いてみると、『継続的にもっている思想上の立場。常常もっている意見・主張。』などと書いてある。

 利他とは己を捨てて他のために生きることだ、とする。
 人は、親になればそういう境地を自然と味わう。自分の腹が減っていてもまず子供の空腹を考えて、眠くても子が泣けば起きてあやす。「そうすべし!」という思想を常々持って行動しているわけではなくて、自分の体が少々辛くても「そうしてやりたい」という衝動で動く。そういうものだろう。

 他が苦しんでいても自分の安逸な生活を優先して行動する利己主義というのは、「そのように生きるぞ!」と常々強い意見を持ってそうしているわけではないだろう。ついついそうしている、あるいは知らず知らずにそう生きている、そういうことではないだろうか。思想としてそうしているというより、もっと根っ子にあるものによってそうしているのではないか。
 他の家、他の国の子供が苦しんでいても、それを放置して我が子にかかりきりになれるのは、マザー・テレサの言うところの『無関心』の問題なのだと思う。

 だから、利己主義・利他主義というのは、実は主義の話ではないように思う。人の意思とか主義ではない。もっと奥底の、人の性質。無意識の領域での行動様式が関係しているとみるべきじゃないか。

人が陸にいるので陸的になり、海にいれば海的になる。

 人はその生きる環境によって性質を異にする。生まれ育った場所の地質によって男子の性格が大きく異なるという話をよく聞く。
 九州某県のシラス台地は火山灰・軽石を主とする地質でそこで育つ男子は軽石の如く「中身が空っぽ・虚勢だけ・外面で誤魔化す」などと俗に言われる。一方、花崗岩地質の鹿児島薩摩地方に育つ男児は西郷隆盛を代表とする「男とはかくあるべし」と言いたいような骨太男子に育つと言われるのだ。(いずれも俗にではある)

 ここで大胆なアイデアを述べれば・・・
 人は陸で生活すれば陸の性質の如き存在になり、海で生活すれば海(水)の性質の如き存在になる
 のではないかと考える。

 人は、陸を中心に生活するので、陸の性質を帯びる。
 陸には線を引ける。そこで人はすぐに陸に線を引く。国境、我が土地の境、そして人の心。線を引くのが習慣になり、形のないものの間つまり我と彼の間にも線を引くようになる。
 自分居るの国境線の内で子供が飢えていれば大問題だが、線の向こうならば問題にはしない。しかし、線のこっちでも向こうでも、苦しんでいる命の価値に差異はなく、救うべき義務にも差はないはずであるが、この線一本がそういう常識も簡単に歪めるのである。

 しかし、もし、人が海で生活すれば・・・海には線など引けない。海の水は常に動いているし、海の中の魚もそうである。
 海は誰のものでもなくみんなのものだ。全ての海をみんなで大切に使うのだ、と、考えるしかなくなる。

 本来は陸も含めた全ての地球環境に対してそのように接するべきだ。と、誰もが解ってはいるのだがその様には生きられない人である。
 それは陸でばかり生きているからに違いあるまい。
 地表の7割が海である如く、あるいは、人の体の割合が塩水である如くに、人が海で人生の7割を生きる様になれば、人は海・水の性質を持った存在になるのではないか。
 それが昨今の強い思いであります。ま、わたしは今、埼玉在住で、海は見えもしないわけですが・・・。

人は、海の人に進化するしかない。

 陸上利己(固)文明を極めてきた我々ヒトは、もう限界だ。
 このコロナまで発生している状況下で、生活様式だけではなくして、人はもっと根本的な部分で変化を遂げるしか生き残る術はないのではないか。みんなもうそれはだいぶ前から感じていたことだと思う。映画だって、そういうメッセージのものに溢れている。
 もう限界だよね、もう悟ろうぜって。

 しかし、陸上利己文明のピラミッドの頂上にいる人は、そうは思っていないのだろう。でも、どんどんそのピラミッドがら離れて、川へ海へと向かう人が増えていくことだろう。そうなれなければ、人の歴史は終焉をむかえるのだとさえ思っている。
 かくいう我が家も、入間川上流あたりへの引っ越しを考えておるのであります。(今は川越)

 「海人」のステッカーをよく見かける。「ウミンチュ」と読む(知ってますよね)。沖縄で漁師など海に関わる人を指す言葉だそうだが。まさに、わたしたちが海人になる時代だ、と、思っている。

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