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人類最大の問題。鬼滅の刃のあとにくるものを悟る。サトフル…ちがうか。

『一番大きな人類社会の問題(課題?)が何か解ったな! 結局はこれ! というお話』

 鬼滅の刃の無限列車をようやく見終わった。久しぶりにTVCMを挟みながらの映画を鑑賞したが、やっぱりこれは嫌だね。笑

 鑑賞したと言っていいのかすらわからないかもしれない。
 その昔、フジテレビが映画「フラッシュダンス」を地上波でCM一切なしで放送して話題になったけど、そんなことを覚えていたり話題にする人はもう居ないか・・・。

 TVCMも挟まるし、3歳の娘の様々な要求も挟まるしで、かなり制作者に礼を欠く鑑賞方法だったけど、とにかく、まあ、観た。
 そして、なぜかこれを観終わったタイミングで今から書き留める事を、書こう!と決心する「オモイ」が来た。

 で、本題・・・
 結局、神さまの存在と、霊界の存在=死後も人は生きている、死後人が生きる世界が霊界と・・・これが人に残された大きな問題というか、テーマというか、課題なんだなと。
 神さままで含めると、ちょっと争点が複雑化するので・・・分かり易く話を絞るなら、霊界の問題ということになりましょう。

 人は死んでも、つまり、肉体が寿命を終えても、人の精神というか心のというか、霊というか・・・人の本体は終わりにはならなくて、永遠に生きるよ・・・ということです。

 人が肉体を離れても、永遠に存在して、生活していくよー・・・ということになると、全ての物語か変わっていくんだなあ、、、と、そんなことを、無限列車が終わって思ったのでした。
 このことは、前々から思っていた内容ではありますが、なぜか、それを今書こうと。そう思わせたものがありました。それくらい、やっぱり何かエネルギーの高いというか多い、そういう作品だったのでしょうか。。。不思議。

 人が人類が、「お月様は地上からすごく高いところにあるドーム状の板にくっついている光る円ではなくて、38万キロメートル先にある天体だ」と知っていることくらいに、「人は死んでも死なない」ということを知るようになると、どんな変化があるだろうかと考えると面白い。

 死が、人と人の関係を永遠に断つ出来事ではなくなるとしたら・・・物語の語り口はどうなるのか・・・。
 人の死が、「わたしも用事が済んだら追いかけて行くから、先に行っておいて!」と言うのと変わらない要素になるとしたら。。。

 たとえば、ガンダムだってね。(すぐガンダムで語る一党)ララア・スンの死で、アムロとシャアがあんなに遺恨を残してバトルする事がなくなるだろうね、とか。そうすると、逆襲のシャアは成立しなくなっちゃうとかね。その前に、ジオングとガンダムの決戦すらないかもしれない。
 鬼滅の無限列車でも、炭治郎が煉獄さんの死に対して、あんなに大粒の涙を流すこともないし。そもそも、炭次郎は、家族の死に対してもそんなに大きなものとして背負わないだろうから、鬼殺隊の戦士として成長することもなかっただろうし。いや、鬼殺隊になりもしないし。。とか。
 全部、ぜんぶ全部が、変わってきてしまう。

 医療でも、心臓が動いている事が善という基準が全変化するから、延命措置みたいなことに由来するいろんな葛藤とか悲劇とか使う医療費だって・・・全部なくなっていく。ぼろぼろの肉体で生きてるか死んでるかわからない状態で置いておくのって、何か意味あります? っていうことになるので。

 それどころか、死んで終わりだと思っているから、享楽的に生きたり人をだまくらかして利己的に生きたりね・・・そういうことをしてしまう人というか、そういう価値観が発達してきた部分があるけど。。。そうじゃなくてね、自分のやったことの記録を全部持ってあの世に行ってずっとそれを映写機で映写しているような状態で過ごすということを知ったら・・・ぜんぶ全部の価値観がひっくり返り、行動も変わりますよね。

 世界平和と、経済波及効果が、どんだけでかいか、霊界の問題。
 だから、そろそろ、この問題を本氣でセンターで話す時がきているのだろうと思います。みんなね。誰かが話すということでなくみんなでです。

 実際に、そういう流れが来ているのが、今だと感じます。
 丹波哲郎さんリターン、みたいな? 大霊界。。。

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