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祖父の話

祖父は7年前に亡くなったけれど私が一番尊敬している人間の1人だ。
若干体格が大きくて、グレーヘアでメガネをかけて少し強面。
今日はそんな祖父について改めて思い出したことも踏まえながら書いていきたい。

昔は東証一部上場の某企業の役員と系列会社の社長をしていた、、、らしい。
というのも、私が物心ついたときはすでに退職して、ただの散歩が趣味で野球が好きな普通のおじいちゃんだったから。
まさかこのおじいちゃんが社長なんてと思っていたが、亡くなった時に届いた電報の数々、挙げ句の果てに日経新聞などにも訃報が取り上げられた時はやはりすごい人なんだと感じた。


祖父は博識だった。
政治経済歴史あらゆることに精通していて、分からないことがあればおじいちゃんに聞いてみようというのが家族の共通認識だった。
仕事上、官僚や経済界のお偉方と会話することも多く、それに対応するためにとにかくインプットの量を増やしていたらしい。
退職してからもその習慣は続き、朝起きるとまず新聞を読み込み、気になった部分にはマーカーを引いていた。
祖父の書庫は歴史の本がとにかくたくさんあったのを覚えている。

祖父はとにかく孫の僕を可愛がってくれた。
共働きの両親は毎日遅く帰ってくるので僕は祖父母の家でご飯を食べることも多かった。
僕は小学校が終わるとしょっちゅう近所の祖父母の家に行った。
祖父は祖母が書いた買い物メモを頼りにスーパーへ買い出しへ行くのだが、そのついでに寄り道して散歩することが日課だった。
僕はその散歩に間に合うように、17時までに家へ向かって、荷物持ちをする代わりにお菓子やジュースを買ってもらっていた。
散歩をしてる時にとりとめもない雑談をした。
学校であったこと、新しいポケモンの映画のこと、最近買ってもらったゲームのこと、色々。
祖父は何て返事をしてたか忘れたけど、ずっと聞き役に徹してたと思う。
僕がずーっと話してるのをうんうんと聞いてくれるのがいつもの流れ。
今思うと祖父は自分の仕事の話は一切しなかった。
勤めていた会社のことも祖父がかなりすごい人だということも、僕が高校に進学した頃まで知らなかったほどだった。
散歩から帰宅すると祖母へ頼まれたおつかいの買い物を納品し、いつものリビングの定位置に座って3チャンネルの野球の阪神戦を見る。
正直、野球じゃなくてアニメが見たいなと思いながらも、祖父が喜んでくれる方が良いやと少し気を遣って僕も野球を見ていた。
そんなある日、祖父が小型のポータブルテレビを買ってくれた。
「お前ポケモン見たかったやろ、これで2人ともwinwinや。」と祖父が言った。
祖父には何でもお見通しなんだなと思った。


祖父は僕には甘かったけれど、学業は精一杯頑張れよとしきりに言っていた。
僕が地元の国際学部がある公立高校へ進学した時、祖父は英語を使えると便利だから頑張れよとよく言ってた。
僕自身は勉強が好きになってきて語学も肌に合ったこともあり、最終的に学年順位を2位まで上がることができた。
祖父へその事を報告すると、自分のことのように喜んでくれて大げさにも焼肉に連れてってくれてお祝いをしてくれた。
実は祖父は自身の息子、つまり私の父に対して良い大学に出てほしいと思っていたらしい。
今では少し古い考えなのかもしれないけど、当時の時代背景から良い大学へ行き安定した大企業へ勤めてほしいと思っていたらしい。
残念ながら私の父は勉強が得意ではなく、高校は留年し、大学は何とか夜間の経済大学に受かったがすぐに辞めてしまった。
祖父からその話を聞いた後に「僕は勉強好きだから大学へ行きたい!」と言ったらすごく喜んでくれた。

祖父は自分自身に対してはかなり倹約家だった。
服は貰い物を何年も着てるような人だった。食事にも強いこだわりはなく、唯一好んで食べていたのは2010年代当時流行っていた食べるラー油。
あのラー油をつまみに酒を飲むことが日々の小さな楽しみのようだった。
食べるラー油の中身を食べ切ると、ラー油だけが残った空き瓶に鰹節を入れてつまみの二毛作をしていた。それすらもなくなると岩塩をひとなめして酒を飲んでた。
そうやってちまちま安く飲む方が迷惑をかけない感じがして気楽で良いと言ってた。
うちの両親もあまり酒を飲まないので、一家で酒を飲める人があまりおらず、「いつか、お前と2人で酒を飲むことが俺の夢やねん。」と口癖のように僕に言ってた。
祖母が友人と夜ご飯を食べに行って、祖父一人になる時は僕を誘って二人で近所の焼き鳥屋に行くことが多かった。
焼き鳥屋の店主へも同じように「孫と二人で酒を飲むんや」と息巻いて言っては「あと何年でこいつと飲めるぞー!」なんて嬉しそうに話してた。

僕の志望校への大学進学が決まり、祖父母へ報告すると二人とも本当に喜んでくれてお祝いにパソコンを買ってくれた。
報告から1週間もたたない頃、家の近所を歩いてると顔も知らないおじいさんから、「大学進学おめでとう」なんて言われてしまった。
祖父は近所のじいさんズへ自慢に行って、それが地元で広まったらしい。
恥ずかしかったけれど、それくらい喜んでくれたなら頑張って勉強を続けてきてよかったなと思った。

僕の大学進学が決まってすぐに祖父は大病を患い下半身が不自由になってしまったため、自宅介護をすることになった。
祖父のプライドから身内には介護をお願いできないのではと思っていたのだが、祖父自身も何度も考えて最終的には娘夫婦へ頭を下げて介護をお願いしてもらう運びとなった。
祖父は介護用ベッドから1人では動けない生活になってしまったが、それでも毎日のインプットである新聞の確認と読書はかかさなかった。
2016年、大学一年生になった僕は書店でのアルバイトを始めることになった。その頃から僕は外出できない祖父の代わりに、社員割で安く買った本を祖父へ定価で売る「孫Amazon」を勝手にやっていた。
これもwinwinってやつかもしれない。
週刊ダイヤモンドはいつも買いに行かされるので取り置きしてもらっていた。
その頃くらいから、ようやく祖父との会話についていけるくらい自分も知識がついてきたので昔の仕事の話、株の話、今後の就活の話などとにかくたくさん話をした。
バイトのない日はほぼ毎日祖父の家に行って話相手になってもらった。
祖父は昔話をしてくれたけどそのどれもがスケールが大きかった。
首相交代の時に手土産を持っていっていた話や、天皇陛下から園遊会に招待された話、仕事柄お歳暮が大量に届くので祖母と二人がかりでお礼状を書いた話など全てが刺激的で面白かった。
祖父は大学に入学してすぐの僕に対して「お前は中之島を見下ろすような会社へ行けよ」なんて、変な事を言ったりもした。
中之島は大阪の淀屋橋を中心として財閥系の会社が多く点在する関西を代表するビジネス・金融街。それらを見下ろすビルがあるオフィスで働けということは相当な大企業に行けという事だろう、と理解できるくらいには祖父の言いたいことが理解できるようになっていた。
当時大学一年生だった僕はあまり間に受けずとも祖父の言葉を心のどこかには留めていた。

大学に入学して半年が経った10月末。
祖父が急逝したとの一報があった。
つい2日前に話したところだった。
僕はその電話を大学の構内で聞き、そこからどのように帰宅したかはショックであまり覚えていない。
地元で執り行われた葬儀には様々な会社の方から献花がされ、すごい人だったんだなと実感した。
闘病生活最後の3ヶ月は医療用鎮痛剤を投与しなければ、激痛で話もできない状態だった事を後に叔母から聞かされた。
祖父はそんな辛い顔や弱音を僕へは一切見せずに、いつも気丈に振舞ってくれていたことを知り涙が勝手に溢れてきた。

祖父が居なくなった部屋には僕が買ってあげたばかりの週刊ダイヤモンドと時代小説が置いてあり、机の上の新聞紙にはマーカーが引かれていた。
ノートには僕と話すための新たなネタや暇な日に書き留めた川柳等もかかれており、その中には未公開の話も記載されていた。

祖父が見た夢の話が以下のように書かれてた。
「投与されてる薬のせいなのか最近ほぼ毎日夢を見る。今朝は散歩の夢を見た。夢では⚪︎⚪︎(僕の名前)と歩いてるけど、その瞬間自分はこれが夢である事に気づいてしまった。自分の足はもう動かないし散歩なんていけないから。夢でも嬉しかった。」
こんな感じの話だったと思う。
散歩が大好きだったから、闘病生活は本当に大変だったんだろうなと思った。

そして祖父が亡くなってから2年が経ち2018年、僕は20歳の誕生日を迎えた。
最初のお酒は約束の通り祖父と飲むことにした。
祖父の仏壇で祖父の大好きだったアサヒスーパードライと日本酒を飲んだ。あまり美味しくなかったけどどちらも飲み切った。


おじいちゃん
あなたがいなくなってから色々ありました。
新型ウイルスが世界中で流行って日本でもパニックになりました。
でもいくつか良いこともありました。
阪神が優勝したよ。相変わらず道頓堀にみんな飛び込んでた。
あと、日本の株価が最高値更新した。
株を教えてくれたのはおじいちゃんやったね。
今の僕の一番好きなビールはアサヒです。
一緒やね。
僕は大学を卒業して、結局中之島を見下ろすオフィスでは働いていないけど今は関東で元気に勤めてます。
去年結婚もして本当に大切な人ができました。
結婚式も来て欲しかったです。
もっといろいろな話をしたかったです。

今でもたまに夢に出てきます。思い出します。
一日だけでいいから会いたいです。

おじいちゃん、僕は元気でやってます。

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