『若きウェルテルの悩み』に書いたゲーテの、子どもとくるみの木への眼差し
この世で愛情ほど人間というものを必要とするものはないことはけだし確かだね。
ゲーテはロッテのピアノの調律に出かけたけれども、子供たちにおとぎ話をせがまれて、調律ができなかったことを書いている。
自分で話をすると、なかなか教えられることが多い、本当だよ。この話が子供たちにどれほどの印象を与えるか、驚くのほかはない。
ゲーテがつなぎの話を出まかせでしゃべると、それが前にも話したのと違ったりすると、子供たちから抗議が出る。
第一印象というものは受け入れやすいし、人間はどんなに現実離れのしたことでも信じる気になるものだ。そいつはいったん頭に入ってしまったらこびりついてなかなか離れるものじゃないから、それをあとからかき落とそうとしたり削りとろうとしたりしないほうが賢明なのだ。
ロッテと一緒にたずねたことがある牧師さんのところのくるみの木が、切り倒されてしまったことに、ゲーテは激怒した。
いつもぼくの気持を実に晴ればれとさせてくれた木
あの枝ぶりのすばらしさ、すがすがしさ
あれを大昔に植えた尊敬すべき坊さんたちの追憶
あの木陰に立つとぼくはいつもおごそかにその人を思い出す
木を切り倒されたことを傍観してしなくてはならなかったのに…村中がおこりだした。切り倒したのは、新しい牧師夫人だった。
落ち葉で庭がよごれる、じめじめする、日当たりがわるい、実が熟すると子供が石を投げる、そんなことが燗(かん)にさわる、瞑想が妨げられる、という理由で。
ゲーテは、村の年をとった人達にたずねてみた。
「なぜあんた方は黙っているんだ」
その返答は、こうだった。
「この土地じゃ、どうにもなりませんや」
木が植わっていた土地にたいしては管理所に昔から権利があるので、管理所で競売された。木はたおれている。
子供たちと、年老いた牧師夫人と村の人達との、物事に対する反応の違いを、ゲーテは書いている。
子供たちに嘘やでまかせは通用しないが、大人は間違っているとわかっていて「仕方ない」で済ましてしまうようになる。
子どもが小学生の時「朝から担任の先生が機嫌が悪いんだよ」と言っていたことがある。職員会議で何か不平不満があったのかもしれない…けれど…子供たちは先生の機嫌を窺っていたことを聞いても、大人同士ではそういう話はしなかった。それは親も同じように朝から機嫌が悪いことがあるからで…「先生もそういうことはあるだろうな…」とおもんばかってしまうからでもある。
「ゆとり教育」になり、学校としても様々な変更があったのだろうが…保護者にも学校の先生がピリピリしているのが伝わってきていた。
毎日ピリピリする先生を共に過ごさなくてはならなかった子供たちは、さぞ辛かったことだろう…と思う。