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母語を教える技術:わたしの失敗談

わたしは大学院生時代から15年ほど英語を使う仕事をしていた。

研究職だと、英語の能力よりも専門家としての知識や知見の深さを問われるので、そんなに高い英語力は期待されない。
だから「意味さえ通じれば良い」という世界でわたしは生きていた。

また、わたしは片言の中国語ができる。
中国人の友人が数人いて、彼らは片言の日本語ができる。
わたしと彼らを比べると、わたしの中国語のほうが若干マシなので、基本の言語は中国語で、ときどき日本語が混ざる。

わたしは中国語会話の中で、単語を聞き取って意味を推測して話している。
わたしがしゃべる中国語は、あとから「あ、あそこ間違ってた」と気づくことも多いが、中国人たちはそれを指摘しない。
正しい中国語を話すことよりも、会話することのほうに重点を置いている。
要するにここも、「意味さえ通じれば良い」という世界である。

問題はここからだ。

わたしは、ある中国人に日本語を教えてくれと頼まれた。
その人は日本語中級レベルで、日本語で意思の疎通をするにはまったく支障がない。
しかし「丁寧語や敬語の会話を習いたい」と言う。

困った。

日本語の丁寧語・敬語には実に様々な種類や段階がある。
行儀作法にも関係がある。
文法も正しくなければならない。

わたしは外国人たちと、そういうものを一切考えずに会話してきた。
わたしは意味だけを拾って会話してきたのだ。
相手の日本語がどんなに間違っていようと、意味さえわかれば気にしない。
だから、その間違いを指摘しなければならないとなると、会話が中断されるので、わたしは会話の流れがわからなくなる。

さらに拍車をかけたのは、わたしが大学で論文指導をしてきた経験である。
日本語母語話者で日本語の書けない学生たちを相手に、正しい日本語の書き方を教えるという大義名分の下、「意味不明」だの「日本語になってない」だのひどいことを言ってきた癖がついている。

だから
その健気な向上心に溢れる中国人に対して
わたしは
もう思い出したくもないのだが
かなりひどいことを言った
ような気がする。
ごめん。
役に立てなくてごめん。
ひどいこと言ってごめん。

相手にとってはどうてもいいことだろうが
わたしはとても落ち込んだ。
泣きたかった。

その一方で、楽しく会話をしながら正しい日本語を教える日本語教師とは、高い技術を持っていて、なおかつ人格的にも優れた人たちなのだ、ということに気づかされた。
日本語ができれば誰でもできる仕事ではないのだ。

だから、あの日からわたしは、日本語教師のみならず、外国人に母語を教える優れた教師すべてを尊敬している。

どうか言葉が架け橋となりますよう。
未来を切り開く力となりますよう。

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