みえないものを数える

豊かというのは「いっぱいある」ということで、
その対義語の乏しいというのは「少ししかない」ということだ。

重要なのは「なにが」いっぱいあったり少ししかなかったりするかということなのだろう。

わたしはよく聞く、瓶に石を詰める例え話が好きだ。

ある人の前に瓶がある。
容量は決まっていて、横にはたくさんの石や砂利や砂がある。

瓶にまず石をいっぱいに詰め込む。
ある人は聞く。
「瓶はいっぱいか?」

問われた誰かは答える。
「はい、いっぱいです。」

ある人は頭をふって砂利を入れる。
砂利は石より小さいので、まだ瓶に入る。

そうして瓶にいっぱい砂利を詰めると、またある人は問う。
「瓶はいっぱいか?」

誰かは答える。
「はい、いっぱいです。」

また、ある人は頭をふって砂を入れる。
砂は砂利より小さいので、まだ瓶に入る。

工夫すればどれだけだってものを詰め込めるという意味ではなくて、容量は限られているのだから自分にとっての優先順位をちゃんと考えなさい、という話だ。

砂だけで瓶をいっぱいにすることはできるけれど、
自分にとっての価値が瑣末なものだけで埋めてしまえば、大切なものが入る隙間はない。

豊かさというのはこういうことではないだろうか。

瓶は、小さく区切った数時間でもいいし、1日でもいい、わたしは人生だと考えている。

人生は有限だ。

しかも容量はほとんどの場合誰にも分からない。

わたしは何年かすれば生きて30年になるけれど、わたしの瓶が30年分なのか120年分なのかは分からない。

だから、大事なものを優先的に詰めていくことにしている。

わたしにとって最優先事項は「わたし」。

わたしは小さな娘がいるけれど、そしてもちろん何より愛おしいから自分の命より大切にしたい。
わたしの命と引き換えに彼女が幸せに生きることができるのであれば、躊躇いなく差し出すことができる。

それなら大切なものは娘なのでは?

いや、違う。

わたしはわたしがそうしたいと思うから娘を優先するだけだ。
娘のことを考えているようで主体はどこまでもわたしだ。

わたしはいつも慎重に娘を愛おしく思うことにしている。
気をつけないと、いつの間にか人生の主人公が娘になってしまうのが怖いからだ。
自分の人生と娘の人生を混同するほど危険なことはない。
自分の人生が娘のものになってしまえばそれは依存だし、娘の人生が自分のものになってしまえばそれは過干渉になる。

これは相手が夫でも友達でも社会でもお金でもそうだと思っていて、だからわたしの1番の優先順位はいつだってわたしだ。

こうして、人生における主人公を自分に据えたうえで豊かさについて考えた時、

それは「幸せを定義する力」だと思う。

もっと柔らかく言えば、自分にとってなにが幸せなのか知っているかということだ。

自分がたのしくて幸せになることをいくつ知っているか、それが「いっぱいある」ことが豊かさだと思うし、「少ししかない」ならそれはさみしいってことなんじゃないか。

わたしの幸せは、気の合う友人と話すこと、料理をすること、たくさん寝ること、娘の頬を撫でること、よく晴れた朝に深呼吸をすること、思いつくがままに車を走らせて海を見に行くこと…。

きっとこれからまた一日いちにちを生きていく中で、新しい幸せコレクションが増えるのだろうし、それはとても「ゆたか」なことなのだとわたしは考える。

そうして願わくばこれから娘の人生も、たくさんの「ゆたかさ」で溢れますように。

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