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山田太一『異人たちとの夏』 を読んだ

珍しく私の両親がそろって良作だと言った作品が、山田太一の『異人たちとの夏』でした。(二人とも趣味がかなり違うので、両方が気にいることが少ないのです。)

ほとんど忘れかけていた、他者からの関心と愛情の中にいることの心地よさを思い出しました。小さい頃、親の気配を感じながら自分の身の安全さを疑いもせず眠ったこと。あの眠りほど幸福感を感じるものはないでしょう。

ある程度成長すると誰かに守られることよりも、守らねばならないという義務感の方が強くなりますよね。

この小説での被保護感の心地よさへの描写にとても強く共感しました。

 受け身になりたかった。父と母が、ああしろ、こうしろといってくれて、そのいいなりになる快感。「このタオルを前へ敷いて。こぼすから敷くの。ほら、こぼした。いってるそばから、こぼしてるじゃないの。」
 そのようなことをいわれることの、なんともいえぬ甘いやすらぎを、心から求めていたのかもしれなかった。

p75

人間が心身ともに安定した状態で発達するためには、揺るがない心の拠り所が必要だ、とどこかで読んだ覚えがあります。子供が学校などの外の世界で失敗を恐れずに挑戦を続けるためには、その心の拠り所として安定した保護者の存在が大切だと。

子は親元から巣立つのが自然の原理ですから、そんな安定した保護環境は大半の大人が持っていないでしょう。

でも近年の世の中は失敗しろ!とか挑戦しろ!とか、リスクを取らないと成功はない!とか。明らかに私たちに挑戦を強要してくる風潮です。そしたら心の拠り所がない大人たちはどうすれば良いのか。

そんな不満感からこの小説のような被保護感やノスタルジックな世界観が人の心を掴むのかなぁ。。。なんて考えてました。知らんけど。


最後に一つのこる疑問があります。305号室のケイとの関係性は結局なんだったんだろう?彼女は最後原田を道連れにすると一度は言いながらも、「下らない命を大事にしたらいい」と言って消えます。ケイと原田の間にあったのは愛だったのか?お互いの弱みに漬け込んだ依存関係だったのか?

ケイは道連れにすることができないという理由で、原田を解放しますが、私は自らの意思で原田を道連れにしないと決めたのだと思いたいです。ケイは自殺したにせよ、化けて出るくらい生きることへ未練があったのです。また、生前の部屋に飾られた絵などから、生への執着を感じます。

自分なしで生きることができる原田に対して、嫉妬からくる怒りを感じながらも、それでも良いから生きろ、と最後に突っぱねるように解放したんだと思います。素直でないものの、愛情深い行動だと感じました。

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