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見るか拒否するか……狂気のプロジェクト映画『DAU.ナターシャ』について

衝撃の問題作!という見出しで紹介される映画は存在するが、実際に見てみると、「そうでもないな……」と思うことも多い。
しかし、イリヤ・フルジャノフスキー監督の『DAU.ナターシャ』は、本物の問題作だと思った……。

全体主義を再現……興味深い『DAU.』プロジェクト

『DAU.』プロジェクト(※1)の構想自体にはとても興味を惹かれた。

全体主義体制下での個人的、社会的、職業的な領域での人間の行動を探り、自由が全くない中での自由を検証する。


ソ連時代の全体主義社会再現した場所を作り、そこでキャストたちが実際に暮らし、働く様子を撮影していくという大掛かりなプロジェクトだ。

ウクライナのハリコフという町に、1万2000平の広さのセット(政府の研究施設)をつくりあげ、約2年に渡り撮影を慣行している。

登場人物のほとんどがオーディションで選んだ一般の人々。本物の俳優ではない彼らが、セットの研究施設で実際に働く様子を撮影していくのだ。
プロットはあるものの、脚本がなく、登場人物のセリフはほとんど即興で行われている。

この「ある設定の隔離された場所を作り、そこで働く人々が即興で演技をしていく」という実験的な撮影方法に興味を惹かれた。

登場人物は、2年間もの間、役として研究施設に通い存在していたわけで、演技ではなく、【役柄を生きる】という状態で作られた映画というのはどういった出来上がりになるのだろうという部分が一番気になった。

イリヤ・フルジャノフスキー監督は、2009年から2011年にかけて、35mフィルムでトータルで700時間という映像を撮影。
その後、共同監督にエカテリーナ・エルテリというメイクアップアーティストの女性を迎え、膨大な量の映像の編集作業をすることになる。
2018年に編集を終えて14本の長編映画を完成させている。

長編映画14本という本数で描かれる『DAU.』プロジェクトの第一弾映画と言えるのが、『DAU.ナターシャ』というわけだ。

『DAU.ナターシャ』で描かれているもの

ナターシャ編では、研究所の食堂のウェイトレスとして働くナターシャが主人公。彼女が働く研究所では、なんだか怪しい実験が行われている。

ソビエトの物理学者で、ノーベル賞を獲得した実在の人物レフ・ランダウが所属している研究所という設定。
ランダウの愛称でもある「ダウ」が映画のタイトル『DAU』になっている。
公式ホームページによると、施設は秘密研究所で多くの科学者たちが軍事的な研究を続けているらしい。それゆえに、研究所で働く人々は、KGBらしき組織に監視されている。

ただ、ナターシャは、そこまで「秘密」に関する意識が高いとは思えない。食堂のワインや食料を勝手に飲み食いしているし、同僚のウエイトレスのオーリャオリガ・シカバルニャ)とケンカしながらも自由に過ごしているようにも感じる。

主役のナターシャを演じているナターリャ・べレジナヤは俳優ではない。普段は、撮影地となったウクライナのハリコフで働く一般市民だ。

撮影期間中は、ハリコフの自宅から研究所に通い、食堂のウェイトレスとして働いていたのだそうだ。プロットはあるが脚本はないので、普通にウエイトレスとして出勤して、退勤していくのだろう。

それにしても、ものすごい熱量でナターシャ役を演じている。演じているという言葉は正しくないかもしれない。ナターシャとして存在している。
彼女に対してはとても魅力を感じた。

ナターリャ・べレジナヤはインタビューで、「95%自主的な演技で5%監督の演出」と言っている。(映画パンフレト)

鑑賞前は、ここまで即興に頼っているとは想像していなかった。

演技ではなく、即興なので、ナターシャが語る言葉は、ほぼすべてナターリャ・べレジナヤ本人から生まれてきた言葉だということになる。

即興芝居というのは、自分の中に潜む負の部分が表面化するものなのだ。

即興という設定のおそろしさ

私自身、演劇のワークショップで即興劇を何度かやったことがある。
毎回、自分の中にいる自分の知らない自分が現れて(たいていは悪の部分恐怖を感じた。
それを知ることが、演技の道の第一歩なのかもしれないが、素人にはかなりビビる体験だ。
本作の場合は、即興と言っても、舞台などでアドリブを言うとかのレベルの問題ではない。

自分ではない人物の人生の設定を与えられて、研究所にいる間は常にその人物になり切り、即興で言葉を吐くのだ

それを2年間も定期的にやっていたのかと思うと……。恐ろしいし、人道的に大丈夫なのかという懸念も残る。

即興を常に求められる状態に放り込まれた人々は、通常の精神状態ではないという可能性もあると思う。

即興劇というのは、瞬発力があって迫力はあるので、見るものの好奇心をくすぐる面はある。
美しいウエイトレス二人が、感情に任せて口論し、髪を引っ張る場面などは、ついつい引き込まれて見てしまう。

しかし、それ以上の意味がこのシーンにはないと思う。

ウエイトレスという設定を与えられた二人(ナターリャとオリガ)が、ただお互いの気に入らないところを言い合ってケンカをしているだけだ。
即興なので、二人の中にある悪の部分は見事に表面化している。
それを映像として捕らえるという目的なのであれば成功しているのかもしれないが、見ているほうとしては二人が無理やりお互いの悪口を言い合っているだけに見えてしまった。
芸術性とか想像性を感じる部分がなく、何とも後味の悪い映像だった。

ベルリン国際映画祭での評価と批判

本作は、ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞しているが、批判の声も多かった。

懸念の声が上がったのは、撮影環境の透明性についてで、閉鎖的な場所で出演者たちが強制的にやらされているのではないか?という労働倫理上の問題が焦点になった。

特に問題になったのは以下の二つのシーンだ。

映画の中でナターシャは、研究所で働く外国人のリック博士と性的関係を持つが、本当にセックスをしている。(日本公開版ではモザイクがかかっている)このシーンがポルノ的だということ。

もう一つは、外国人であるリック博士と関係を持ったことをKGBに攻められ性的な拷問を受けるシーンがあること。

※以下、拷問シーンについてのネタバレ描写があります。
性的描写を不快に感じる人もいるかと思うので注意してください。

個人的な意見だが、拷問のシーンは非常に不快感を覚えた。この映画の趣旨からいってこのシーンも即興で行われているのだが、拷問をする研究所の所長役の人物は本物の元KGBなのだ。

拷問シーンとは、真っ裸にされたナターシャが「酒の瓶をあそこにいれろ」と言われて、最終的に出し入れするシーンのこと。

私は、拷問されるほうのナターリャよりも、拷問するほうの役をあたえられたアジッポさんに対する精神的影響を心配してしまった。
元KGBの人が、脚本通りに役を演じるのではなく、即興で拷問官を演じなければいけないのだ。

KGB時代に実際に拷問をしていたのかどうかは分からないが、どちらにしても拷問シーンを撮影しているときに非常に戸惑ったに違いない。

彼の戸惑いが表情に現れる様子は、映像にも映っている。

即興で、拷問官と拷問される人どちらかをやらされるとしたら、どちらも嫌だが、じつは拷問官のほうも後々の精神的苦痛は大きいと思う。あくまでも即興でやる場合の話しとして。

ナターシャは、「酒の瓶をあそこにいれろ」と言われて、「いやだ」と答え、「じゃあ、瓶をイスに置いてその上に座れ」と言われて、「他のものに座りたい」と答えている。

本物の拷問じゃないという前提はあるとしても、「他のものに座りたい」というセリフが出るあたりが、即興の恐ろしさでもあるし、ナターシャ役のナターリャの胆力の強さに、どんびきしたシーンでもある。

彼女は、そこまでナターシャになり切る必要があったのだろうか。本物の俳優であれば、「役としてあのセリフが出てきた」ということもあるだろうが、本作ではナターシャというのは、与えられた設定でしかないのに。

結果的に不快だったセックスシーン


ナターシャとリック博士のセックスシーンもそうだ。
愛のあるセックスシーンで鑑賞しているときは、そこまで嫌悪感は感じなかったが、挿入している部分を含めて、全部を見せる必要があるだろうか?と言う疑問は残った。
本物のセックスシーンをフルで見せないほうが、逆によかったのでは?

プロットはあるけど脚本がなく、95%が出演者本人の意思で作られた映画だとして、「リック博士とナターシャは愛し合う」というくらいのプロットが前提としてあったとしよう。

とすると、映像の中でセックスをしているのは二人の意思なのだろうか?
撮影クルーは、「ほんとにセックスしているよ」とか、「これが実験的撮影方法の結果なのだ」という視線で2人の行為を撮影していたのだろうか。

結局、台本がないから、キャストの即興性にたよらなければならない。

台本があれば、セックスシーンを見せても、「出会った男女が、愛あるセックスをしている」となるが、キャストの即興性を撮影しているだけと言うスタンスなのであれば、ただ単に二人の成人男女の本物のセックス映像を観客は見たことになる。

このシーンでは、このプロジェクトの趣旨自体を疑わしく思ってしまった。いったい、何がやりたいのだろう?
博士とカフェのウェイトレスという設定を与えたら、本当にセックスしちゃったんです。

ということを見せたいのだろうか?

ドキュメンタリーでもモキュメンタリーでもない映画

鑑賞前にはこのプロジェクトの映像の撮影方法に興味を持っていたが、映画を見た結果、やはり根本的にこの撮影方法は、ダメなんじゃないかと思った。

「実録!これが全体主義社会の実態だ!」といって実験的撮影の結果をドキュメンタリー化して映像化したわけでもない。
フィクションとして練り上げたストーリーの中でナターシャが生きているわけでもない。

700時間の映像の中から抽出されたナターシャという存在は、結局ナターシャとして2年間カフェで働いたナターリャという女性そのものなのだから、ナターシャを演じているのに実際には演じていないが、全体的にみればナターシャとして存在している、という状況になっている。

この状況(定義)に意味を見出せなかった。
ある程度の脚本があれば、また違ったかもしれない。

ドキュメンタリーでもフィクションでもない状況で、モキュメンタリーでもないし、リアリティ番組でもない。
私は、何の映像を見ていたのだろう。自分の見た映像の正体がまるで分からないということが初めての体験だったので、非常に戸惑った。

そして、こうして感想を書いているうちに、だんだんと怒りのような感情が沸いてきた。私の中では、元KGBの男性の苦悩の表情と、セックスと拷問のポルノ的な映像が一番のインパクトとして残ってしまった。

セックスシーンに嫌悪感はなかったが、鑑賞後の今になってみれば、拷問のシーンも含めて、ポルノを見たいわけじゃなかったのに結果的に見てしまったという状況になっている。
18+と記載があるとはいえ、鑑賞前の心構えがもう少し必要だった。
今から鑑賞するという人は十分に注意してほしい。

一方で、ナターシャの物語は確かに面白さを感じた。政府の研究施設の食堂という特殊な場所で働きながら、酔っ払い、食堂の材料を飲み食いするナターシャ。40半ばの女性で、美しいが、結婚していないらしく、後輩ウエイトレス、オーリャの若さに対して嫉妬心も感じている。

リック博士とは関係を急ぎ過ぎて、性的関係を持ったものの、恋愛に発展せず後悔するハメになる。たしかに、全体主義の中での自由について描こうとしていることも理解できた。

最初に書いたが、この映画は14本の作品の中の1本なのだ。
『DAU.』プロジェクトから発生した長編14本、シリーズ3本という作品群は、DAU.comというサイトで対価を払えば視聴することが可能なのだが……。

あと13本を、他の見たい映画を差し置いて鑑賞するほどの意義は感じなかった。残念だ。


(※1)『DAU.』プロジェクト

ロシアの奇才イリヤ・フルジャノフスキーは、処女作『4』が各国の映画祭で絶賛されると、今や忘れられつつある「ソヴィエト連邦」の記憶を呼び起こすために、「ソ連全体主義」の社会を完全に再現するという前代未聞のプロジェクトに着手した。

ウクライナのハリコフという町に、1万2000平の広さのセット(政府の研究施設)をつくりあげ、約2年に渡り撮影を慣行するという巨大プロジェクト。

登場人物はオーディションで選んだ一般の人々。本物の俳優ではない彼らはセットの研究施設で実際に働く。プロットはあるものの、登場人物のセリフはほとんど即興で行われている。

映画の設定世界を厳密に守るというルールのもと、セットの中に入る人は、ソ連当時の服装を身に着けなければならない。

映画のホームぺ―ジによれば、オーディション人数のべ39万人、衣装4万着、登場人物役100人、エキストラ1万人という大規模なプロジェクトで、撮影期間40か月、35ミリフィルムで700時間の映像を撮影している。

映像から構成された映画やシリーズは、全体主義体制下での個人的、社会的、職業的な領域での人間の行動を探り、自由が全くない中での自由を検証する。それらは、人間の存在の重要でタブー視されがちな問題を扱っている。

第70回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞した映画『DAU. ナターシャ』が、2月27日(土)より、シアター・イメージフォーラム、アップリンク吉祥寺ほかで公開される。



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