見出し画像

 これは,就職活動で渋谷にきていたときの出来事である。
 私はこの渋谷という街が好きだ。髪の毛,服装,メイク,所有物などに工夫を凝らして,思い思いに自己を表現している。そのように外見的な多様性が溢れる中でも誰かが誰かに突っかかるということはなく,各々が自らの生活に没頭することに必死だ。このように,皆が他者に無関心で,個人がどこまでも自由な状態でいられるのが,渋谷という街である。
 そんな渋谷のシンボルの一つであるハチ公銅像は,巨大で迷宮と呼ばれる渋谷駅にて人と落ち合うための手がかりとして広く認知されている。このハチ公前で,ひときわ私の目を引く少女がいた。この日は雨が降っていたのだが,少女はその華奢な体躯とは釣り合わない大きなビニール傘を差しており,傘地には赤く太い字で大きく「私はこの傘を盗みました!」と書かれていた。この傘をくるくると回転させながら,何やら待ち人を待っている様子だった。
 渋谷の街並みは相変わらずこの少女に対しても無関心な様相を呈していたが,私はこの少女のことが気になって仕方がなかった。この少女は傘を盗んで使っているのかもしれない。私の正義感はその状況を許さなかった。そこで私は,渋谷での道理に反し,この少女に声をかけた。
「すみません,ちょっと気になったのですが,あなたはその傘をどこかで盗んできたのですか?」
「こんにちは。この傘は盗んだものではありませんわ。まさしく,私が家から持ってきたものです。」
「けれど,そこには『私はこの傘を盗みました!』と書いてあります。」
「こうやって書いてあったら,盗人さんもこの傘を盗みにくくなると考えましたの。あなたが盗人さんだったら,わざわざこんな風に書いてある傘を盗もうとは思わないでしょう?」
少女は,傘の内側から反転した文字をなぞりながら返答した。
 なるほど,この少女は盗難対策として「傘を盗みました」と,でかでかと目立つように書いていたのか。確かに最近は,傘の柄の部分にメッセージを施し,傘の盗難を抑止する試みをする人が増えていると聞く。しかし,それを傘地に施す人を私は初めて見た。柄の部分に書かれるメッセージとは違い,傘地にメッセージを書くことはその内容を公の場に高らかに宣言するようなものだ。そこに「私がこの傘を盗みました!」と書かれているとあっては,並の盗人であれば周囲の反応が気になり,それを差して街を歩こうとは思わないだろう。いや,しかし…
「しかし,あなた自身が傘を盗んだ人と見なされてしまいますよ。私が声をかけたのもそのためですし。」
「ここの人間は,あなたとは違って他人に無関心なのですよ。」
 その通りだ。私は渋谷の理に逆らってこの少女と話をしているのだった。言葉に詰まり,しばらくの沈黙が続いた。するとここで,ある可能性が私の脳裏によぎった。少女はこの傘を自分のものだと言っているが,本当だろうか。この少女は,渋谷の皆々が他人に関心を持たないということを知っている。それを知った上で,「この傘を盗みました!」と宣言する傘を盗んできた並並ならぬ盗人であるかもしれない。私はこの可能性について,少女に確認せずにはいられなくなった。
「あなたは,もしかしたら嘘をついているかもしれない。本当はこの傘の持ち主が他にいて,あなたはこのメッセージがあって尚,否,このメッセージがあったからこそ,この傘を盗んだのかもしれない。根拠はまったくありませんが,なんとなくあなたにはそういう感性があるように感じられます。」
「確かにそう思われても仕方がありませんわ。しかし,根拠がないんですもの,そういう言いがかりはよしてくださいませんか?」
「これは失礼しました。申し訳ありません。しかし私,そういう感性が嫌いじゃないんですよ。正義感が人一倍強いはずの私が。自分でも信じられないのですが,そう思うのです。」
「あら,そうだったのですね。ところで,この傘が私のものということは紛れもない事実なのですが,実は一つだけ,これとは違うところであなたに嘘をついていました。申し訳ありません。なんだと思いますか?」
 見当もつかない。この短い会話の中に,嘘を入れ込む隙があっただろうか。あったとしても,どんな目的で?これだけ奇奇怪怪な雰囲気を纏う彼女のことであるから,ただの気まぐれだろうか?そのように思案しながら沈黙していると,少女は続けてこのように言った。
「あなたのこと,どこかで見たことがあると思いましたの。ずっとわからなくて考えておりましたが,今やっとわかりました。あなたは上之裏愛さんですね。」
 上之裏愛,思い出した。これは私が3年前まで使用していた自らの名前である。しかし一体なぜ?なぜこの少女は私の昔の名前を知っていた?なぜ私は私の昔の名前を忘れていた?不可思議な出来事を前にしてしばらくの間考えていたが,一言も声に発せられることはなかった。少女は時折スマートフォンを操作しながら,無言で立ち尽くしている。長時間の沈黙の末に,少女は口を開いた。
「では教えてあげましょう,私がついていた嘘を。『ここの人間はあなたと違って他人に無関心』というところですよ。少なくとも,これは私がこの傘の盗人だと人々に思われない理由にはなりません。」
「どういうことですか?」
「この傘の赤色の文字,実は悪い人にしか見えないんですよ。傘を盗もうなんて考える人なんて悪い人しかいないでしょう?そして悪い人だったら,盗人が街を歩いていたとしてもどうとも思わないわけです。まさか,それでも話しかけてくるような愚かな悪人がいるなんて思っていませんでしたけど。」
 「悪い人」という言葉を聞き,私は3年前の記憶をだんだんと思い出してきた。そうだ,忘れていたが私は悪い人だったのだ。少女は話すのをやめず,先ほどとは打って変わって捲くし立てるように言葉を放ち続けた。
「ほら,上之裏愛って言ったら3年前に湘南で放火と殺人を繰り返して逃亡している指名手配犯でしょう?だからきっとこの文字も見えていたんですよ。こんなにたくさんの張り紙が街中に貼っているのに堂々と闊歩しても捕まらないなんて。あ,もしかしたら渋谷の人が他人に無関心っていうのは本当なのかもしれないですわね。」
 言い終わらないうちに,私は何者かに両腕を掴まれた。気がつくと,私は厳重な体制を敷いた警官たちに包囲されており,逮捕されることが確定的な状況となっていた。
「申し上げておりませんでしたが,私のお父様は警視庁の長官なの。さっきあなたが俯いている間にお父様に連絡して,警官隊を呼びつけておいたのですわ。」
 渋谷という街の人々は,他人に無関心である。私のような指名手配犯が闊歩していても,人々は気づかない。他人の顔になど興味がないのだ。そんな街が,指名手配犯の私にとっては心地よく,好んだ。ここでは堂々と,こんなに人がいるのに堂々と出歩くことができる。ここを散歩することが趣味となった。散歩を続けるうちに,誰からも関心を持たれないこの街にどこか寂しさを感じることもあった。そうした感情を押し殺すように,私は3年以上前の記憶を失っていき,指名手配されて上之裏姓を名乗らなくなった後のことしか思い出せなくなった。そして,遂にはここで適当な職に就けないかと考え始め,自分が指名手配犯であることを忘れた私は就職活動に没頭した。
 その矢先の彼女との邂逅である。今,目の前にはたくさんの警官たちが私を囲み,そのさらに外側には野次馬たちが群がっている。まさかこんな形で警察にしょっぴかれるなんて。私は今から警察に連れて行かれ,裁判では死刑を宣告され,特に何かを成し遂げることもなく死ぬのだろう。私が悪い人であることをきちんと記憶していたならば,放火と殺人をやらかしたはずの私があそこで窃盗ごときに正義感を駆り立てられて,彼女に声をかけたりすることもなかった。記憶を失っていたとしても,彼女がいなければこんな結末を迎えることもなかっただろう。彼女が,彼女がいたから,私はこれから渋谷の街を歩くことができなくなる。彼女がいなければ。
 いや,冷静になろう。おそらくこのまま就職活動を続けていれば,さすがに誰かが気づいて通報していただろう。所詮は自分の悪事を忘れてのうのうと生きていた罪人。被害者の痛みを慮ることもなく,自分が彼らを痛めつけた事実さえも忘れていた,冷酷非道な人間だ。捕まって当然である。しかし,もはやそんなことはどうでも良かった。今は目の前で薄ら笑いを浮かべているこの少女に対する激烈な関心によって,私の精神は支配されていた。
 この少女はどんなふうに「悪い」のか,死刑が執行される前にそれだけは知りたい。


#この物語はフィクションです

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?